波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「道徳化教科」

2013-03-20 09:00:30 | Weblog
阿部内閣が発足して今までに余り聞かなかった政策を少しづつ提示されている。
先日の国会の質疑応答で阿部内閣が提示した学校教科に「道徳」を採用したいとの発言に対し公明党の山口代表が「それは親の問題であって学校で教育する問題とするには
いささか問題があるのではないかと質問があったやに聞いた記憶がある。
この問題に関連して、その数日後にある評論家が「親がしつけを中心にモラルを教えられない状況だからこそ学校が取り上げて少しでも子供にモラルを習得させようと言うことだから、もしこの提案が成立しないのなら親の責任を問うことも考えられる。例えば親の側に一定の約束を果たさせることを考えたらどうだろう。例えば自治体で所管で
レポートを提出させることを義務化させるとか、講習会の出席を最低限出ることを課すとか親の側に責任を持たせることも出来るのではないか」というものであった。
これらの意見を聞いていて私も親の一人としていささか無関心でいられない気持ちになった。「あなたはどう思うか、親として子供の躾に自信を持っているか」と自問自答することになった。
人様にどうのこうのと言える立場でも、何でもないが子供への関心、子供への向き合い方についてはその年齢に応じて避けられないものであったし、その場面場面でこれで
よかったのかと言う反省と後悔の繰り返しのようであったと思う。
今になって考えてみると親が思っている以上に、又親が子供を知る以上に子供のほうが正確にそして冷静に見ているように思う。(親が気づいていないことも含めて子供のほうが知っていることも多いのである。)従って親が自分の立場や権力?で子供に接する場合は誤ることが多いのではないかと思えるのだ。
「子は親の背中を見て育つ」とは昔から良く聞く言葉だが正に当たっている気がするし、この言葉の意味をかみ締める必要を思う。
しかし、この大事な基本を親は充分自覚できているのだろうか。幼児のときはいざ知らず10歳を越せば昔なら元服の歳でもあり、国によっては立派な成人とみなしているところはいくらでもある。ある意味一人前の人間として接して大人としての所作を身をもって示すことが大事であり、それが出来なければ親失格とされても仕方がないのでは
ないかと思う
こう考えてくると今日の「モラル」問題は理屈とか、規律の問題ではないのではないかと思えるし、普段の日常生活の中で自然に行われるべきものであり、「裃」を着て
登城するようなものではない気がしている。