波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

             思いつくまま  

2009-10-21 09:53:57 | Weblog
若いときには仕事と生活に追われて、何も考えられないままに人生を過ごしているが、年齢を重ねていくうちに不図何かの拍子で、人生に不安を覚えることがある。否、若いときであっても今の環境や境遇の中で、このままで将来どうなるのかと不安を感じることは大いにあることだと思う。
まして、健康を害していたり、家族に病人がいたりすれば当然不安と悩みとは切り離せない状態に置かれることになる。
そして、人は誰であれ、日々の生活の問題の中で「安らぎ」や「平安」を無意識に求めることになる。そこで、世の中には「癒し」のためのいろいろな方法が生まれてきて、音楽を聴くこと、食べ物や飲み物により精神を休ませる、アロマセラピーによるもの、マッサージで身体をほぐす、そしてペットを飼うこと等、様々な方法がある。これらは確かに一定の効果は間違いなくあるだろう。
少し、意味は違うかもしれないが、私は嘗て「ぎっくり腰」で悩んだ時期がある。
この頃は仕事に支障が出ることもあって性急に治療を必要とし、マッサージをはじめ、針、灸、カイロプラステックとあらゆることをしたのだ。
確かに施術時は治ったかのような気がするほど良くなるのだが、程なく元の悪い状態になり、苦しんだのだが、「安らぎ」対策も根本的な対策につながるものがあるのかと考える時、果たしてどうかと首を傾げたくなる。
先ほどの方法なども一時的であるか、その時だけのほんの一部分でしかないのではないだろうか。
ぎっくり腰はその後、ジムトレーニングにおける腹筋の矯正運動をしながら、腰にあまり重量負担をかけないことで行動し、予防対策をしている。
生きている限り様々な不安や悩みを抱え、其処から開放されること無く続く問題として考える時、自分の力の限界を感じざるを得ない。それは自分の思いがある程度かなったあり姿であったとしても、解決したことにはならない。
そう考えてくると、其処に解決を求めることが誤りなのかもしれない。むしろ
それはずっと存在し続けるものとして、そのことに自分がどう対応していけるのか、どう立ち向かえるのかと考えるべきだと思う。
そして、其処に人間の限界と人間以外の力を思うこともあるのではないだろうか。
秋の夜長に眠れぬままにこんなことを考えてみた。
政治も新政権になって一ヶ月、まだまだ日本のチエンジには時間がかかりそうである。少し長い目でも見守りたいものです。
庭には花も終わり、来年に向けてチュウリップの球根が植えられた。来年が楽しみである。