波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに

2012-09-11 09:21:37 | Weblog
世間では人の評価や噂で「あの人は外面は良いけど内面は良くない」などということを聞くことがある。確かに人間は
多面的であり、必ずしもいつも冷静で同じと言うことは難しいことだ。まして少し言えばタイプの好き好きもあって、女性の
言い方に寄れば「あの人はタイプだわ」となるか、「タイプじゃないわ」と内面はともかく外面で峻別してしまう。
私自身を考えてみると、若いときから営業と言う職業柄、どんな人物との関係でも「好き、嫌い」を表に出すことはなかったが
それでは、誰も好ましかったかと言われれば正直そうでもない。
強いて言えば、一つは無意識のうちに権力主義的なプライドが見え隠れする人ともう一人は「あなたは幸せでいられるんだから良いんじゃない」というそぶりが見える人だった。その人は一見謙虚に見えるのだが、いざとなると結構突き放して、同情することが見られなかった気がする。
しかし人は誰しも何らかの「重荷」を担って生きているものである。そしてその重荷は他人から負わされるものと自分自身でその重荷を作っている場合とがある。前者は突然の交通事故であったり、保証人になった相手から責任を負わされるようなことになった場合などであろうか、そして後者は自分自身の身体の不自由さや病気などが考えられる。よく親が子供病気や不幸をみながら「代わってやれるものなら代わってやりたい」との声を聞くが、それは誰しも背負うことが出来ないことなのである。
「困ったときの神頼み」は昔から日本に伝わる考え方だが、そうではなく真の神を信じていると言う信仰を持つものであれば
その「重荷」はどうなるのだろうか。やはり変わらない存在であり続けるのか。
重荷は無くなりはしないが、その重荷は「変型」すると考えられる事実がある。それは歴史的にも身近にも見られることで、
その代表的な人物としてヘレンケラーや星野富弘氏を思い出す。つまり言い換えれば人間は自殺でもしない限り、、必ず誰かがその重荷に打ち勝つ力を与えられるだけでなく、幸運で健康であったときより「いい人」としての存在になることが出来ることである。(全ての人がそうなるとはいえないが)
神は思いも付かない方法で人間を完成へと導かれるものだと信じている。だから私たち人間にもいささかの、ささやかな責任もそこにはあることに気づき、その努力をしなければ成らない。それはその「重荷」を如何に有効に使うことができるかと言うことである。一見マイナス財産に見えるものかもしれないが、財産である。これを捨てることは財産を捨てることにもなることを考えれば、これを捨てることなくしぶとく活用することを考えるべきであろう。
そしてその重荷は一人より二人で担うことも大切であり、それを担い合うことが大切であることも知るべきだとも思う。