貴美華が巡る奥の細道

芭蕉の「奥の細道」を巡り終え、新たな旅を計画中、間日常の出来事を十七文字で遊びます。

佐渡情話

2006年06月26日 | Weblog
    佐渡情話 夏めく風や たらい舟 

おけさ・たらい舟・尖閣湾(君の名は) みんな悲恋な話です。
そんな悲しい恋はいやですが、何故か日本人の心にのこり大事に育っていくのですよね。 民話の里では、山椒太夫・夕鶴・他、 文楽人形芝居もあります。

     つゆ晴れ間 民話うまれる 情の島

おけさ笠をかぶり たらい舟にのりました、この笠って、盆踊りは無礼講、武士・町人・無宿人 誰が踊っているのか分からない様にかぶったんですって、今年の町内会の盆踊りこれ被って踊ろうかしら、よけい目立つかしら?。

     顔隠し 無礼講だよ 盆踊り

今BS再放送で朝、「君の名は」やってまーす。忙しい時間なのに誰が見るの?  海中透視船のりました、想像していた日本海とは違った穏やかな海です。

     
       

君の名を 問えばキスゲが なびく湾

ここのキスゲの種類忘れましたが、丈は短く土の無い岩肌から潮風にまかせ、揺れてます。
自分へのみやげはなんたって佐渡の地酒、「北雪」の五種類飲み比べです、これからの暑い夏を乗り越えるには、これが一番楽しみでーす。
最後にきて、芭蕉の面影 消えました、まぁいいか、出雲崎で待っていてくれるとおもいます。
     
旅装解き 地酒に酔いし 想う佐渡
 

道遊の割戸

2006年06月24日 | Weblog
      道遊の 割戸となりし 金の山

芭蕉の生まれた時代は金山の最盛期は過ぎていたようですが、「奥の細道」を旅した1689年頃は地中からの湧き水との戦いで、新型排水器具を導入、その後江戸、大阪などから幕末までの100年間に約2000人の無宿人が送られたそうです。

      彼岸入る 帰れぬ島か 佐渡送り

技術は最先端、金山洞窟跡の展示物で知り、ロボット人形で感じます。 金山はかならず立ち寄るとこですが、相川~東京間の距離を掘ったのです、山の頂から海の中まで、湧き水の処理が大変だったでしょうね。
     やわらぎや 親方が着る 百足柄
           
(洞窟の中なので暗いのです、腕のせいかもしれません。)
「やわらぎ」は山の神の心を和らげ、鉱脈がやわらかくなり手掘が容易で安全な様にとの、祈りだそうですが、白い紙の面を付けて樽を叩いて唄います。

      金銀を 運ぶ佐渡路に 華の宿

芭蕉が寄った、出雲崎は金銀の陸揚げ港として賑っていたとおもいます、今日は・・「良寛と夕日の丘公園」があるみたい。 
良寛は「奥の細道」から70年後、佐渡出身の母から出雲崎で誕生しました。
良寛は芭蕉の影響、受けてますよね。
              出雲崎へ次回いってみます。



佐渡の比叡山

2006年06月22日 | Weblog
      夏の霧 大佐渡小佐渡の 峰隠れ

佐渡を回っている内に、ここって日本の縮図のようだはー、 と私は思った、 それって?
貴族・武士・商人・町人・漁民の文化が仏教・神社に解け合い、技術・芸術と結びつき、生活に活かされていると感じたからかもしれない。

      夕凪や 牡蠣養殖の 浮き輪哉

東京都の1、5倍、沖縄に次ぎ2番目に大きく、冬暖かく夏涼し、流人は政争に敗れた人、約80人、中でも 順徳上皇、世阿弥、日蓮 が名高い。 都(京都)の鬼門に位地するため、天皇の勅をうけ空海が鎮護のため開山し小比叡山と名づける。
      
      小比叡山 蓮華峰寺の 四葩かな

             

境内は広く躑躅が終わり、地元では紫陽花(四葩)寺として親しまれている。
石に刻まれた梵字で三十三観音巡りもあり、金堂、骨堂など重要文化財も多い。

             都をば 想う架け橋 天の川

芭蕉の句「・・佐渡によこたふ・・」を詠った時は雨で星は見えないはず、とか夏の日本海は穏やかだ、などといろいろ言われていますが、・・私は大好きですし、自分なりの解釈をしてまーす。   つづく

佐渡の薪能

2006年06月20日 | Weblog
    水無月や カモメと渡る 佐渡が島
 
貴美華が巡る奥の細道もいよいよ新潟を南下するところまできましたが、佐渡に寄り道します。

江戸時代,佐渡は気軽に渡ることが出来なかったので、芭蕉は佐渡に思いを寄せながら あの有名な 荒海や・・・・・の句を詠みましたよね。
私はこの句が大好きです。この句を鑑賞するには、佐渡に渡り、あの時代に盛んだった金山と能を肌で感じたいとおもっていました。

     つゆ曇り 島影おって 日本海
     
佐渡は、農作物・海産物は豊富で鉱山があり自然に恵まれ、思っていたより大きな島でした。「能」は江戸時代最盛期で能舞台は200位あったそうです。今でも32あり、6月は能月間になっています。

     暮れかかる 熊野神社は 薪能
            

     火入れ待つ お喋りの内 夏日暮れ

熊野神社の古書には、「1751年 神事能あり、」と書かれています。宝生流の薪の明かりで奉納した舞が今日の薪能になり、お役人から島民まで楽しんでいたようです。
今夜の奉納能「猩々・乱」は、酒の精です、面も衣装も朱で、足を高く上げ音無く下ろしポーズとる、 乱舞とはいえ、可愛らしい舞です。

     火取虫 飛び交う舞台 乱の舞

芭蕉の句鑑賞とあまり関係無いように思われますが?、 次に続きます。

潮風に 身をまかせ咲く きすげ哉




えんぴつで鯖野

2006年06月17日 | Weblog
ー奥の細道ー 「飯塚の鯖野と聞きて、尋ねたずね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が旧館なり。・・・・・」
福島から飯坂温泉へいく途中に、医王寺があります。この寺が「義経の龍虎」と言われている佐藤兄弟の菩提寺てす。

      雨上がり 一人降り立つ 無人駅
               

平成17年NHK大河ドラマ「義経」で、佐藤継信・忠信兄弟の活躍をみましたが、芭蕉の時代にも兄弟の忠義と親孝行者の嫁二人の話は評判だったのでしょうね。
芭蕉はここで、二度も泪を流し、寺に入りて茶を乞へば、・・・・

     笈も太刀も五月にかざれ紙幟  -芭蕉ー

義経の太刀と弁慶の笈。 太刀は太平洋戦争の時供出して戻らず、笈は宝物館にありました。
     
     弁慶の 背負いし笈か 秋時雨
 
     医王寺に 土族の教え 活かす宝

此処に来て、義経が頼朝の追っ手を逃れ東北へ来た意味が、やっと私なりに納得いきました。
     生きる意味 死を持って知る 落つ椿

嫁二人の悲しみをもって、つぼみのまま咲かない内に落ちる椿があります。


えんぴつで文知摺

2006年06月15日 | Weblog
みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに  -源融ー

古今集小倉百人一首にある、この歌 有名ですよね。
源融と、長者の娘、虎女の悲恋物語の歌です。 こんなかっこいい歌つくるから、・・・
 ー奥の細道ー (もじ摺石のこと)「昔はこの山の上に侍りしを、往来の人の麦草をあらしてこの石を試み侍るをにくみて、この谷に突き落とせば、石の面下ざまにふしたり」・・さもあるべき事にや。」  (明治時代に掘り起こされた)
     
    早苗とる手もとや昔しのぶ摺  -芭蕉ー
                          
    
     涼しさの昔をかたれ忍ぶずり  -子規ー

まだまだ有名人きていますし、 私も来ました。 大勢押し寄せて、近所の人に迷惑かけたのでしょうね。
     
     紅葉落つ しのぶ摺いし 時雨かな    (行った時は秋雨)

えんぴつで黒塚

2006年06月13日 | Weblog
ー奥の細道ー 「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」
          とさりげなく書いてありますが、 行ってきました。

黒塚、ここは安達ヶ原の観世寺境内の岩屋に住んでいた鬼婆を埋めた塚です。「大和物語」「拾遺集」謡曲「黒塚」「安達原」五番目能「黒塚」に登場する、歌枕です。
     涼しさや聞けば昔は鬼の塚   -正岡子規ー       


私が行った時は台風通過の余波で、地はぬかるみ、陽は差さず、岩の切れ目は水を含み、人影はみあたらず、・・・怖いでしょうー
不気味唆が伝わります。 縁起概説はもっと怖いですーよ。(検索してね)

      こんもりと 苔むす塚や 嵐あと

でもこの寺に祀つられているのは行基菩薩の彫った秘仏、「白真弓如意輪観世音菩薩」です。このミスマッチの浄化作用が好きです。

     紙一重 すがり気付くか 観世音
  
和尚さんは親切で、御参りした後は、清清しい気持ちになりました。  
      
     

絵画の意

2006年06月11日 | Weblog
    死生間 いったりきたり つゆの空

生死については普段はあまり考えないので忘れている様に思いますが、そんな時こそ、考えさせられることに遭遇します。
その時は避けずに、何日も考えつづけ自分なりに消化させます、この間しずかに祈る様にすると、次になにをしたらいいかが自然と分かってきます。これは私の自論です。
    
    人生は 紫陽花いろに 染まる哉

知人から個展のお知らせがきました。いつも油絵か版画です、今回はDMを見てもわかりません、何を描いたのかしら?

    梅雨に入る 元気な知らせ 絵画展 
                 

題は「死者の譜」です。 忘れかけた、あのイラク戦争の民間人(お年寄り・子供・女子)犠牲者の死者、27649人が三枚の絵の中に描かれていました。

    立ち上がり 動きだすかな 祈りかな

今年日本の自殺者は3万人です、6月11日付新聞の社説に「法制定で対策の実行性を」とありました、この数は何かを表し、何かを訴えているとおもいます。
問題点は多数あますが、一人一人が考えなくてはならないことでしょう。

    
    生き様が 励みになりし 父母彼岸





    

えんぴつで二本松

2006年06月09日 | Weblog
えんぴつは早いものでもう二本松に着きました。

ここには二本松城がありましたが、戊辰戦争で落城し霞ヶ城公園となっています。
園内に樹齢約350年の傘松(アカマツ)があります。
戊辰戦争に巻き込まれた少年隊(12~17歳)の顕彰碑があり、偲びながら日本一の菊人形をみました。
    
     菊花展 歴史動かす 人の形

「勝てば官軍負ければ賊軍」この言葉は嫌いなので、触れないように暮らしてきましたが、奥の細道でこんなにも触れさせられるとは・・・これから先の青函の旅までつづきます。
       
     (二年前尋ねた時は秋でした、その時の写真です)

     戦いは 時の勝負だ 春の雷

ー奥の細道ー 「いずれの草を花かつみとはいふぞ と、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。・・「かつみ・かつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。」とあります。
あやめと違うかつみ草を尋ね探し、分からないまま日が暮れる、近代郡山市ではこの花を、ヒメシャガとして市花に決めたそうです。

     幻か 路いく前に 胡蝶花 (姫シャガ)

へんですね、姫シャガは今は何処でも見かけますよね。
芭蕉は歌枕を尋ねる旅に出たのですから、かつみ草 知りたかったのでしょうね。
     かつみぐさ いずれがしゃがか はなしょうぶ         

えんぴつで須賀川

2006年06月06日 | Weblog
     えんぴつの 旅は須賀川 栗の花

ー奥の細道ー「・・・とかくして越え行くままに、阿武隈川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。・・・」

須賀川と言う町は知らなくても、えんぴつを走らせればこの景色、阿武隈川と釈迦堂川に挟まれた奥州街道屈指の宿場町でした。
    
     知らずとも 田植えの先や 山の並 

須賀川は今日でもお洒落な町ですが、近年までは専売公社があって随分賑わったようです。この町に芭蕉記念館があり、「奥の細道を辿る絵巻」 買いました。
              

     西の木や 行基き偲びて 可伸庵

栗を西の木と書き、西方浄土に便りありと、行基菩薩は杖に柱にこの木を用ひ給うとか・・・。 俗世間の人の目にとまらない花のように・・
可伸庵は町民の休みの場所となっています、私も栗の下に腰掛け一休みます。
     世の人の見付けぬ花や軒の栗    -芭蕉ー