(後編 バブルの論理)
マクロ経済を観察していると、景気後退が緩ければ、金利を下げて調整することが可能でも、これが急であると、金利での調整がまったく効かない状態に陥ってしまう。そして、更に激しい場合には、デフレがデフレを呼んで加速するようになる。ここまでひどくなることは滅多にないが、大恐慌の時の米国のように、不況に怯える民間だけでなく、政府までが赤字を嫌って緊縮財政を始めたりすると、起こり得ることである。
こうした状態の変化が見られるなら、「相転移」を考えなければならない。相転移とは、気体が液体に変化するようなことであり、ファン・デル・ワールスの状態方程式は、それを表現している。相転移は、二つの因子のせめぎ合いで生じる。実在気体なら、分子の運動エネルギーと分子間力が、それに当たる。この二つが釣り合っているところで、相の状態の変化、すなわち、液化(凝集)が起こる。
マクロ経済を相転移で捉えると、説明はシンプルになる。せめぎ合うのは、利益を追求したい力と、大損を避けようとする力である。需要の低下が緩やかだと、後者は、ほとんど働かないから、利益を左右する金利でもって投資を調整できる。これが、需要の低下が急だと、両者の力が釣り合い、金利が無効化する。そして、低下が激しいと、大損への恐怖が自己増殖し、需要減が需要減を呼ぶことになる。こうして、合理性と不合理性は接合されるのだ。
………
気体の場合は、分子間力の符号が逆になり、引力が斥力に変わったりはしないが、マクロ経済では、そうした現象が起こると考えられる。それがインフレやバブルのメカニズムである。景気が過熱しても、需要の上昇が緩いうちは、金利で調整できるが、これが急になると、止められなくなる。デフレの場合には、金利には非負制約があるとか、腐らない貨幣には超過需要が発生するとかの特別な事情があるから、金利の無効性が受け入れられやすいが、インフレやバブルの場合にも、効かない実態はある。
多くのセントラル・バンカーは、インフレ率が高まってきたら、政策金利を上げれば良いとは考えない。インフレ・マインドが出来てからでは遅いというのが一致した見方であり、その前に予防しようとする。これは、デフレはもちろん、インフレさえも、金利でコントロールするのには難しさがあることを、経験的に知っているからである。今の中国は、投機を押さえ込もうとして、短期金利を跳ね上げてしまったりと、悪戦苦闘しているが、これが実態である。
むろん、禁止的な高金利を打って、インフレを止めることは可能だ。ただし、それは金利で調整できることとは違う。パソコンの暴走は電源を落とせば止まるが、それがプログラムをコントロールしていることにはならない。禁止的な高金利には、「破壊消防」のような面もある。1980年前後の米国のインフレを止めたP・ボルカーの金融政策は、倒産や失業だけでなく、貯蓄投資組合の破綻という金融システムの犠牲まで出しつつ、敢行されている。
1/24の経済教室で、櫻川昌哉先生は、「確かに、強力な金融引き締めでバブルを崩壊させることはできるが、小刻みな引き締めでバブルを制御して崩壊の悪影響を小さくするメカニズムは、少なくとも 筆者の知る限り、みつかっていない。むしろ最近の研究では、バブル期の金融引き締めがかえってバブルを加速させる可能性を示唆している」とする。こういう見方には、まったく賛成である。インフレやバブルには、何か強い力が働いているのだ。
………
「どうすれば経済学」では、それを「ヒトが浮利を追うこと」によって発生すると捉えている。インフレが進む中、今のうちにと思って、早め多めに投資することは、本来、不合理な行動である。多くの場合、思惑どおりに利益が得られるが、やがて、景気が反転したり、資産価格が崩れたりする事態に出会い、それまでの利益を吐き出すような痛手を被ってしまう。多くの小さな利益と一度の大損が均されると、期待値はマイナスなのである。
それなのに、過剰に利益の機会を取ってしまうのは、人生は限られていて、目の前の儲けは逃したくない、大損が来る前には終えられると思うからである。皆が多めに投資をするなら、儲けは実現してしまうし、自分だけ躊躇すれば、投資競争に負けかねないという戦略上の必要性も働く。これは、デフレの中で、小さな利益の機会を捨て、大損を避けようとする選好と同じく、人生の短さを根源とし、向きが反対の対称的な行為である。やはり、不合理であるが正当なる「欲得心」が正体となる。
論理としては、『投資 = n/金利 × 温度 +浮利性』という形である。インフレやバブルが緩やかであれば、浮利性は小さいから、金利で調整できるが、それが急であると、金利では抑制できなくなり、激しくなれば、インフレがインフレを招き、買いが買いを呼ぶ事態となって、手が着けられなくなる。マクロ経済は、上方でも相転移が起こるのであり、それが合理性と不合理性を結ぶ臨界なのである。
………
ヒトが合理的に行動をすると仮定すると、デフレもバブルも起こり得ないものになってしまう。不況の中、余資や失業というムダを放置することはないし、好況における、資金や人手の逼迫の中で、更に追い求めたりはしないはずだ。つまり、ごく普通に見かける光景は、無いことにされてしまう。少なくとも長期的には。
ところが、ヒトは長期的には死んでしまう存在なので、不況時に、将来の万一の不安のために、目先の利益の機会を捨ててしまったり、好況時に、目先にちらつく利益に喰らいついて、将来の破綻の危険を犯してしまったりする。これらは、人生という時間制約のある存在には、不合理ではあるが正当な行動である。
あとは、こういう実態を認めて、不況でも好況でもない平時における、利益を最大化する合理的行動と、不況や好況の時の不合理な行動を接合するモデルを作れば良い。それが「どうすれば経済学」の論理式における「-大損性」や「+不利性」の項である。こういう不合理の「同居」を認めると、説明は楽なものになる。
インフレやバブルは、金利が効かなくなり、それぞれの主体の小さな不合理が解消されなくなることで、「積み上がり」、「溜め込まれる」ことになる。これらの言葉の意味は、「組織化」とか「構造化」と同義である。漢語にすると、かなり秩序立ったカンジになるが、砂粒が積み上がって山になるのも、その一つである。
臨界に差し掛かると、新たに優勢になった力が、おのずと新たな秩序を作り出す。余分な投資という小さなバブルが積み上がり、やがて、過剰投資の不合理さの「自重」に耐えかね、崩れる時が来る。ほとんどは小さく、ごく稀には大きく。これは、砂粒が摩擦力の仕業で山になっても、重力がどこまでも高くなることを許さないのと同じ理屈である。
他方、デフレで対称的なことはないのか。不合理に過少な投資を続けていると、低需要でも収益が上がるリーンな秩序が形成されていく。そこに、たまたま、円安とか、海外来客とか、復興とか、株高効果とかで、需要が追加されると、企業収益が急伸することになる。デフレの「逆バブル」が弾けるということだ。
生産性の向上は、企業減税だ、規制緩和だと、当局が旗を振らなくても、低需要が企業を鍛え上げてくれる。そして、当局が需要を安定的に管理してさえくれれば、勝手に花開くのである。追加的な需要で、企業収益が急伸し、雇用と所得に広がり、消費が向上すれば、放って置いても脱デフレとなる。経済とは、こういうものであり、そうした大事な局面で、増税で需要を吸い上げたりしなければ、上手く行くのだ。「改革なければ、成長あり」である。
………
さて、ここまで、いろいろと説明してきたが、ケインズは、おそらく、デフレについて、同様のことを「イメージ」できていたのではないかと思う。残念なのは、『投資 = n/金利 × 温度 -有効需要』というところまで、たどり着いたのに、後を継ぐ者が正常進化させられなかったことだろう。マイナス因子と読んで、意味する概念を解明し、行動原理としての力を同定すれば良かったのだ。
実際には、ケンイズの経済学を、ヒックスがIS-LM図式を使って説明したことで、アプローチがこじれてしまったように思う。LM曲線は金利の関数になっており、これでは、金利が貯蓄投資を調整するという古典派的な経済学に似た枠組になってしまう。すべてを金利に従う合理的行動で説明したい古典派に巻き返され、ケインズ反革命が起こったのも、仕方のないところがある。
熱力学のコロラリーを用い、マクロ経済を説明してみたが、経済学が物理学より劣っていると言いたいわけではない。実在気体の状態方程式は、温度をコントロールし、各温度での圧力-体積の曲線データを得たことで、構築に至ったものである。あくまでも近似式なので、気体の種類で分子間力の定数を入れ替えて使う必要もあり、圧力無限大や体積ゼロを避ける定数を入れてもいる。
実験のできないマクロ経済学において、曲線が画定できるほどデータを集め、解析可能な方程式を構築するというのは、至難の業になる。数々の「金利が効かない」実態も、いわば、点のようなものであり、線を描くまでには至っていないということだろう。物理学だって、ヒッグス粒子という有力な理論を持ちながら、実証によって成果を確定させるまでには、長い時間と高い設備を要している。
そういう制約の中で、大事なのは、モデルを作るに当たり、金利が効かないという実態を尊重することであり、合理的行動論という小事の拘りによって、実態を示す調査やデータを受け付けなかったり、構造的な要因に逃げたりしないことだろう。そして、マイナス因子の力の存在を「予想」するくらいのセンスと度量は必要だと思う。
結局、曲線が画定できなければ、二つの因子のせめぎ合いで説明しようとする「どうすれば経済学」の理論も、しょせんは、真偽不明な数ある理論の一つに過ぎない。一応、古典派的な理論よりは、アドホックな仕掛けなしでキレイに現象を説明できるし、ケインズ経済学の曖昧な概念を少しばかりクリアにしたような気ではいる。数理の世界では「真実は美」と称したりするが、経済がそうなのかは分からない。それでも、論理式一本への集約を美しいと思っていただけるなら幸いだ。
(おわり)
マクロ経済を観察していると、景気後退が緩ければ、金利を下げて調整することが可能でも、これが急であると、金利での調整がまったく効かない状態に陥ってしまう。そして、更に激しい場合には、デフレがデフレを呼んで加速するようになる。ここまでひどくなることは滅多にないが、大恐慌の時の米国のように、不況に怯える民間だけでなく、政府までが赤字を嫌って緊縮財政を始めたりすると、起こり得ることである。
こうした状態の変化が見られるなら、「相転移」を考えなければならない。相転移とは、気体が液体に変化するようなことであり、ファン・デル・ワールスの状態方程式は、それを表現している。相転移は、二つの因子のせめぎ合いで生じる。実在気体なら、分子の運動エネルギーと分子間力が、それに当たる。この二つが釣り合っているところで、相の状態の変化、すなわち、液化(凝集)が起こる。
マクロ経済を相転移で捉えると、説明はシンプルになる。せめぎ合うのは、利益を追求したい力と、大損を避けようとする力である。需要の低下が緩やかだと、後者は、ほとんど働かないから、利益を左右する金利でもって投資を調整できる。これが、需要の低下が急だと、両者の力が釣り合い、金利が無効化する。そして、低下が激しいと、大損への恐怖が自己増殖し、需要減が需要減を呼ぶことになる。こうして、合理性と不合理性は接合されるのだ。
………
気体の場合は、分子間力の符号が逆になり、引力が斥力に変わったりはしないが、マクロ経済では、そうした現象が起こると考えられる。それがインフレやバブルのメカニズムである。景気が過熱しても、需要の上昇が緩いうちは、金利で調整できるが、これが急になると、止められなくなる。デフレの場合には、金利には非負制約があるとか、腐らない貨幣には超過需要が発生するとかの特別な事情があるから、金利の無効性が受け入れられやすいが、インフレやバブルの場合にも、効かない実態はある。
多くのセントラル・バンカーは、インフレ率が高まってきたら、政策金利を上げれば良いとは考えない。インフレ・マインドが出来てからでは遅いというのが一致した見方であり、その前に予防しようとする。これは、デフレはもちろん、インフレさえも、金利でコントロールするのには難しさがあることを、経験的に知っているからである。今の中国は、投機を押さえ込もうとして、短期金利を跳ね上げてしまったりと、悪戦苦闘しているが、これが実態である。
むろん、禁止的な高金利を打って、インフレを止めることは可能だ。ただし、それは金利で調整できることとは違う。パソコンの暴走は電源を落とせば止まるが、それがプログラムをコントロールしていることにはならない。禁止的な高金利には、「破壊消防」のような面もある。1980年前後の米国のインフレを止めたP・ボルカーの金融政策は、倒産や失業だけでなく、貯蓄投資組合の破綻という金融システムの犠牲まで出しつつ、敢行されている。
1/24の経済教室で、櫻川昌哉先生は、「確かに、強力な金融引き締めでバブルを崩壊させることはできるが、小刻みな引き締めでバブルを制御して崩壊の悪影響を小さくするメカニズムは、少なくとも 筆者の知る限り、みつかっていない。むしろ最近の研究では、バブル期の金融引き締めがかえってバブルを加速させる可能性を示唆している」とする。こういう見方には、まったく賛成である。インフレやバブルには、何か強い力が働いているのだ。
………
「どうすれば経済学」では、それを「ヒトが浮利を追うこと」によって発生すると捉えている。インフレが進む中、今のうちにと思って、早め多めに投資することは、本来、不合理な行動である。多くの場合、思惑どおりに利益が得られるが、やがて、景気が反転したり、資産価格が崩れたりする事態に出会い、それまでの利益を吐き出すような痛手を被ってしまう。多くの小さな利益と一度の大損が均されると、期待値はマイナスなのである。
それなのに、過剰に利益の機会を取ってしまうのは、人生は限られていて、目の前の儲けは逃したくない、大損が来る前には終えられると思うからである。皆が多めに投資をするなら、儲けは実現してしまうし、自分だけ躊躇すれば、投資競争に負けかねないという戦略上の必要性も働く。これは、デフレの中で、小さな利益の機会を捨て、大損を避けようとする選好と同じく、人生の短さを根源とし、向きが反対の対称的な行為である。やはり、不合理であるが正当なる「欲得心」が正体となる。
論理としては、『投資 = n/金利 × 温度 +浮利性』という形である。インフレやバブルが緩やかであれば、浮利性は小さいから、金利で調整できるが、それが急であると、金利では抑制できなくなり、激しくなれば、インフレがインフレを招き、買いが買いを呼ぶ事態となって、手が着けられなくなる。マクロ経済は、上方でも相転移が起こるのであり、それが合理性と不合理性を結ぶ臨界なのである。
………
ヒトが合理的に行動をすると仮定すると、デフレもバブルも起こり得ないものになってしまう。不況の中、余資や失業というムダを放置することはないし、好況における、資金や人手の逼迫の中で、更に追い求めたりはしないはずだ。つまり、ごく普通に見かける光景は、無いことにされてしまう。少なくとも長期的には。
ところが、ヒトは長期的には死んでしまう存在なので、不況時に、将来の万一の不安のために、目先の利益の機会を捨ててしまったり、好況時に、目先にちらつく利益に喰らいついて、将来の破綻の危険を犯してしまったりする。これらは、人生という時間制約のある存在には、不合理ではあるが正当な行動である。
あとは、こういう実態を認めて、不況でも好況でもない平時における、利益を最大化する合理的行動と、不況や好況の時の不合理な行動を接合するモデルを作れば良い。それが「どうすれば経済学」の論理式における「-大損性」や「+不利性」の項である。こういう不合理の「同居」を認めると、説明は楽なものになる。
インフレやバブルは、金利が効かなくなり、それぞれの主体の小さな不合理が解消されなくなることで、「積み上がり」、「溜め込まれる」ことになる。これらの言葉の意味は、「組織化」とか「構造化」と同義である。漢語にすると、かなり秩序立ったカンジになるが、砂粒が積み上がって山になるのも、その一つである。
臨界に差し掛かると、新たに優勢になった力が、おのずと新たな秩序を作り出す。余分な投資という小さなバブルが積み上がり、やがて、過剰投資の不合理さの「自重」に耐えかね、崩れる時が来る。ほとんどは小さく、ごく稀には大きく。これは、砂粒が摩擦力の仕業で山になっても、重力がどこまでも高くなることを許さないのと同じ理屈である。
他方、デフレで対称的なことはないのか。不合理に過少な投資を続けていると、低需要でも収益が上がるリーンな秩序が形成されていく。そこに、たまたま、円安とか、海外来客とか、復興とか、株高効果とかで、需要が追加されると、企業収益が急伸することになる。デフレの「逆バブル」が弾けるということだ。
生産性の向上は、企業減税だ、規制緩和だと、当局が旗を振らなくても、低需要が企業を鍛え上げてくれる。そして、当局が需要を安定的に管理してさえくれれば、勝手に花開くのである。追加的な需要で、企業収益が急伸し、雇用と所得に広がり、消費が向上すれば、放って置いても脱デフレとなる。経済とは、こういうものであり、そうした大事な局面で、増税で需要を吸い上げたりしなければ、上手く行くのだ。「改革なければ、成長あり」である。
………
さて、ここまで、いろいろと説明してきたが、ケインズは、おそらく、デフレについて、同様のことを「イメージ」できていたのではないかと思う。残念なのは、『投資 = n/金利 × 温度 -有効需要』というところまで、たどり着いたのに、後を継ぐ者が正常進化させられなかったことだろう。マイナス因子と読んで、意味する概念を解明し、行動原理としての力を同定すれば良かったのだ。
実際には、ケンイズの経済学を、ヒックスがIS-LM図式を使って説明したことで、アプローチがこじれてしまったように思う。LM曲線は金利の関数になっており、これでは、金利が貯蓄投資を調整するという古典派的な経済学に似た枠組になってしまう。すべてを金利に従う合理的行動で説明したい古典派に巻き返され、ケインズ反革命が起こったのも、仕方のないところがある。
熱力学のコロラリーを用い、マクロ経済を説明してみたが、経済学が物理学より劣っていると言いたいわけではない。実在気体の状態方程式は、温度をコントロールし、各温度での圧力-体積の曲線データを得たことで、構築に至ったものである。あくまでも近似式なので、気体の種類で分子間力の定数を入れ替えて使う必要もあり、圧力無限大や体積ゼロを避ける定数を入れてもいる。
実験のできないマクロ経済学において、曲線が画定できるほどデータを集め、解析可能な方程式を構築するというのは、至難の業になる。数々の「金利が効かない」実態も、いわば、点のようなものであり、線を描くまでには至っていないということだろう。物理学だって、ヒッグス粒子という有力な理論を持ちながら、実証によって成果を確定させるまでには、長い時間と高い設備を要している。
そういう制約の中で、大事なのは、モデルを作るに当たり、金利が効かないという実態を尊重することであり、合理的行動論という小事の拘りによって、実態を示す調査やデータを受け付けなかったり、構造的な要因に逃げたりしないことだろう。そして、マイナス因子の力の存在を「予想」するくらいのセンスと度量は必要だと思う。
結局、曲線が画定できなければ、二つの因子のせめぎ合いで説明しようとする「どうすれば経済学」の理論も、しょせんは、真偽不明な数ある理論の一つに過ぎない。一応、古典派的な理論よりは、アドホックな仕掛けなしでキレイに現象を説明できるし、ケインズ経済学の曖昧な概念を少しばかりクリアにしたような気ではいる。数理の世界では「真実は美」と称したりするが、経済がそうなのかは分からない。それでも、論理式一本への集約を美しいと思っていただけるなら幸いだ。
(おわり)
そのうえで、付け足し2点。
1 IS-LM
拙著『日本国債のパラドックスと・・・』で、IS-LMの限界について少しふれたことで、望月夜さんの反発を呼んでしまったのですが、基本的に(IS-LMでは)ご指摘のように「金利が貯蓄投資を調整するという古典派的な経済学に似た枠組になってしまう」という点に限界があると思います。ヒックスは元々、マインド的には新古典派(古典派)だったという話もあるようですから。
したがって、IS-LMは、平穏期(それはおおむね新古典派が想定している需給均衡近傍の世界です)にしか当てはまらない枠組みになっていると思います。もちろん、IS-LMは、LM曲線のフラット化という状態があり得ることは示しますが、そこで働いているメカニズム(なぜフラット化~ゼロ金利が実現するかといったメカニズム)は、IS-LMのコアの枠組みではなく、古典派の垂直のLM曲線と同様、その外から別の要因・枠組で与えられるものと思います。
2 合理・不合理
理系的発想では、(前にも書きましたが)不合理という観点はないです。使うとしても「これこれこういう場合を不合理という」・・・と定義して使います。
自然科学では、常に自然は「合理的」と考えて理解しようとします。このことを、「よくわからない現象を人間の視点で「合理的に」理解する態度だ」と言い換えても良いのですが・・・。よくわからない現象を「不合理」だと断定して、それを異常値とか外れ値として捨てれば、科学の発展は終わってしまいます。
・・・そもそも、自然科学の発展は、ほぼ「不合理」とか異常値とか外れ値を追究することでなされてきました。最近話題になったSTAP細胞も同様です。そもそも、たくさんの人たちが同様の現象を観測してきていたはずです。彼らは、細胞性物学の常識にしたがって、それを確認しようとせず、異常値とか外れ値として無視してきたのです。
「不合理」と考えると、「不合理」というレッテルを貼って、そこで思考停止してしまいがちになります。「不合理」とはそうした位置づけのものでしょう。通説的経済学が行き詰まっているのもそのあたりに原因があるのかと思うこともあります。
バブルに乗っかるのも、それを不合理と片付けると、「不合理なことはするな」という教訓レベルで止まってしまいます。バブルに乗っかるという行動をどのように、合理的な思考のプロセスの連鎖として理解できるかということが問われるべきです。
こうした観点からすれば、「どうすれば経済学」は、優れた科学的態度に基づいていると、まったく僭越のきわみですが、私は考えます。・・・その意味で、自らそれを「不合理」なものとして説明しておられるのは、合理・不合理2分論にもとづく在来の通俗的枠組みに載ってしまっておられることになるような気がします。