かぶれの世界(新)

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大洲人気質

2004-09-15 23:09:57 | 日記・エッセイ・コラム
これは昨年8月に四国愛媛県の大洲市に帰省後書いた小文である。

前日松山のホテルに一泊した翌朝汽車で大洲に向かった。大洲駅からタクシーに乗った。初老の運転手に今年は冷夏で米が不作だろうと天候の話を始めると、話し好きの反応が返ってきた。最近大洲の町を歩くと、かつて賑わった本町あたりの買い物客が郊外に逃げて、歩いている人もお店の人も年寄りばかりが目立つ。市内の立派な新しい建物は医者か公共の物しかないと話を向けると、大洲は病院の数が多い町なそうである。私も自転車やジョギングであちこち走って感じていた。

大洲は病人が多いので病院が多いのだそうである。その理由は天候にあると運転手が突然力をこめて話し始めた。大洲盆地の中央を肱川が東西に蛇行して流れ、冬になると毎日昼頃まで霧が立ち込め日が差さない寒寒として陰鬱な日が続く。午後になると雲一つない快晴になるが、盆地のため日の入りが早い。このため結核の発生率が他の地域に比べ高いのだという。私が小学生の頃、昭和40年代前半のことだが、結核にかかり1年間休学した同級生がいたと言うと、さもありナンとしたり顔で話を続けた。運転手は八幡浜市に住んでいて、朝、真っ青に晴れた空を見ながら大洲に出てくると未だ夜が明けてないかのような「真っ暗な空」に出遭ってこれはどうしたものかと毎日のように思うのだと言う。

この天候は住んでいる人の気質にも影響を与えるだろうなと水を向けると、その通りだとすぐに食いついてきた。大洲の人は性格が暗く陰湿であると言う。何にでも「お」をつけて丁寧に聞こえるように言うが、一度あったことをいつまでも根に持って忘れない。そのくせ聞くと何も言わない。確かに「お死にた」(死んだ)とか「おいでた」(来た)とか「お」をつけて言う。具合の悪いことや不満など口に出して言わないとは私自身出入りの職人さんとやり取りしても感じていたことである。 運転手は本当に大洲が嫌いなようである。

こういう話題に誘導していったのは最近読んだ童門冬二の「中江藤樹」の中で大洲藩士をひどく矮小に描いているのを思い出したからで、現代になってどう変化したか土地の人に聞いてみたかったからである。子供の頃から大洲は伊予の小京都、おっとりして人の良い上品な町とプラスの面ばかり聞いていた私からすると複雑な気持ちであった。塩野七生氏はシーザが「人は聞きたいことのみ聞く」と何度も言わせているが、私自身この56年ずっとそうだったのかもしれない。

母が嫁いできたときどう思ったのか聞いてみると彼女もやはりそう思ったそうである。天候もさることながら特に土地の人の進取の気概のなさを強く感じたそうであるが、長く住んでいるうちに自らもその中に取り込まれ同化して行った気がすると答えた。やっぱりそうなんだ。家内も大洲の気候が嫌いで、大洲の気候に同化した母を感じているようである。

私自身は15歳で大洲を離れ新居浜市に5年間住み、その後もう35年以上東京暮らしをしてきたが、自分のどこかでこのアティチュ-ドがあるのを認識していて、これを克服しようと努力してきたのではないかと思う。私が米国で95年から約4年働いた時、米国人から見ると言葉の上手い下手よりも、物事の考え方・価値観が最も米国人に近い日本人は私だと同僚の小野寺氏に言ったそうである。今から思うとそれは、その裏返しの大洲人気質の自分がいてそれを克服しようという表面の姿を彼らが見たということなのだろう。

想像をたくましくすると、この大洲人気質と仕事で付き合った山形県米沢の人達はよく似ているような気がする。新しい提案をしても自分の考えを中々言わず、反論がないのだけれど同意した訳ではなく、合意したはずの提案が中々進まない。同じ盆地の地勢、天候が人の性格作りに影響するということなのか。大きく括ると愛媛県松山市以南の人は多かれ少なかれ似た性格があるように思う。温暖な気候で食べ物に困らず、飢饉で沢山の人が死んだと言う歴史など聞いたことがない。水争いもあったと思うが、大事になりやくざが活躍したと言う話も聞いたことがない。夏目漱石が東京から赴任してきて松山の人を揶揄している小説を書いても、逆に誇りにして受け止めているのを見て子供の頃は釈然としかった。今でもそういう気持ちがある一方で、家に着くと落ち着いてゆったりした気持ちになるのである。 


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