不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

田舎暮らし雑感06冬(4)

2007-01-19 15:20:36 | 日記・エッセイ・コラム

と2人きりのお正月はあっという間に終わった。元旦にお雑煮を頂いた後、近くの神社に参拝した。我が家と同じ名前の神社で、母が30年間鍵を預かっていたが昨年隣のの家に代わって頂き役目を終えたたそうだ。鍵を開けて近所の子と一緒に祠の中にある大太鼓を敲いた。初敲きだ。

7日に母の名代で結婚式に出席。週末、先月松山での写真展を紹介してくれたアマチア写真家Sさんの自宅に招かれエゾ鹿の焼肉を頂いた。珍しいものなので、丁度帰省していた義弟と母を誘って伺い、写真や旅行の話で盛り上がった。彼が毎年撮影に行く北海道の知人に贈って頂いたものだという。

鹿肉の臭みは気にならないが脂身が全くなくパサついた感じがして、後から頂いた普通の牛のほうが私には美味しかった。かつてNZを旅して食肉用の鹿の牧場を見たとき、脂身のない健康的な鹿肉として主に英国などの欧州に輸出、日本人の口には合わないと聞いたことがある。そういえばシドニーで食べたオージービーフも脂身がなく歯ごたえがあった。

このところ腰周りに肉がついた感じがする。母は殆ど本能的に私に沢山食べさせようとする。もう80歳になる老人で、糖尿病のため厳しくカロリー管理をしているものだから、2人分のパック惣菜を買ってきて1/2だけ自分のお皿にとると残りを全て私に食べさせる。その上帰郷以来、寝酒のつまみが徐々に増えてきた。

家内のイヤミたっぷりの一言が体重コントロールに貢献してきたのを改めて実感する。それでも運動能力は低下してはいない。田舎にいる間はジムに通えないのだが、その代わりに週一で15kmのジョギング、2日はバドミントン、他の日は5kmのウォーキング、寝る前のストレッチと腹筋をやり、筋肉や関節の具合は1年前より良くなった気がする。

の33回忌を伝える手紙が年が明けると寺から届いた。私も母もすっかり失念していた。父は1人子、祖父の兄は数えで23歳、跡を継いだ祖父も25歳で早死にしたので、近い親戚といっても東京の私の家族と大阪の妹の家族だけ。私たちの家族は全て父の死後に結婚し生まれ、直接接した人はいない。ということで、私と母だけで寺に出かけ「あげ法事」をやることにした。

特別の準備も要らない。1週間前にお墓掃除をし、前日にお供えのお酒と果物を買い、当日お寺に供えお堂でお経をあげて頂き、塔婆をお墓に持って行き線香をあげてお祈りをした。お包みの相場も檀家の間で決まっているそうで2万円だった。

お経をあげる時、33回忌、50回忌、100回忌で内容が少し違うことに気がついた。後で住職に50回忌や100回忌の法事をやる家があるのか聞くと、家によっては例えば33回忌をやる時先祖の法事を一緒にやるらしい。なるほど。

その後お茶を頂きながら和尚との歓談が面白く、ついつい長居をしてしまった。話は平安時代の西園寺氏と宇都宮氏の時代から始まった。お寺は戦国時代に大分から来た袖岡氏の時代に建立、その後長曾我部氏が高知から攻め入り一度寺が焼け落ちたらしい。近年、浄化槽工事で地下深く掘った時、真っ黒い地層が現れ焼けた伝えが証明されたという。

更に時が経ち、長曾我部氏が滅亡後その家臣が土着して農民になり再建された寺と関って来たらしい。和尚によると山之内一豊が桂浜で長曾我部家臣を懐柔し殺した十数人の中に我が家と同じ姓を見つけた、多分この一帯の同じ姓の家は繋がりがあるという。家系図では私は19代目だ。

治維新の前、脱藩した竜馬がこの辺を通り長浜から船で長州に向かった。「土佐では血が流れ伊予では血が流れなかったのは、温暖で豊かな土地柄が影響していないか」、童門冬二氏は「中江藤樹」の中で、「大洲藩の武士は進取の気鋭が無い矮小な存在」として描いている、そういう気質が今も続いてのではと話を向けた。私の印象では松山から南の人達は概して穏やかで人と競争することを好まない印象があるとも。

和尚は別の見方を教えてくれた。大洲藩主の加藤氏は、元々岐阜で力をつけ米子6万石の藩主となった。当時は藩を移るたびに家臣団を連れて行った、その度に新しい文化も持ち込んだはずだ。武士達は新しい土地での統治に手一杯だったかもしれない。必ずしも土地の人達の気質とは言えないと。文化の移住の分り易い例が言葉で、例えばこの地では「有り難う」のことを「だんだん」というが、米子でもそう言うらしい。

そうは言ってもこの土地の人達が概して内向きでおっとりしていることには異論が無かった。和尚は昔こういう言葉があったと教えてくれた。商売の難しさを象徴的に「大阪がダメなら今治がある、今治がダメなら大分がある」と。何故か松山は通り越すらしい。大分はそんなに商売がやり易いとは聞いたことが無いが。

大洲城下にあった昔からのお店は廃れ、この地の穀倉地だった跡に出来た高速道路と広い駐車場がある新興商店街のオーナーの多くは外からの人達らしい。和尚によると市が再建計画を立てても肝心の当事者がまとまらなかった経緯があるという。新ビジネスセンターは猥雑だけど雇用を増やし、税金を払ってくれるのだから文句は言えないと。こういう話が切れ目無く延々と続いた。夢中で話していると、母にもう時間と諭されて暇乞いをした。■

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いじめ報道その後 | トップ | 誰にでも訳がある »

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事