「先週の土日(3月15日・16日)は、家族旅行で山口県にある長門湯本温泉(ながとゆもとおんせん)に行ってきた」
「昨日は、道の駅 萩往還(はぎおうかん)について話をしたんじゃけど…」
「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をしようと思う」
「道の駅 萩往還には、吉田松陰生誕160周年記念事業の一環として、近代日本の礎を築いた教育者としての吉田松陰を紹介する「松陰記念館」と…」
「「吉田松陰と維新の群像」があるんじゃ」
(左から、高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞)
【高杉晋作(たかすぎ しんさく)】
天保10年(1839)- 慶応3年(1867)
萩城下の菊屋横町に武士の子として生まれました。19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧(そうへき)と称されました。長野の佐久間象山(さくま しょうざん)を訪ね学びました。
身分に関係なく組織された奇兵隊(きへいたい)を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献しました。幕末にたいへん活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。
【吉田松陰(よしだ しょういん)】
天保元年(1830)- 安政6年(1859)
江戸時代の終わり頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範(やまがりゅうへいがくしはん)の職を継ぎました。また、松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。
世界に眼を向けた松陰はアメリカに軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後、安政の大獄(あんせいのたいごく)によって処刑されました。
【久坂玄瑞(くさか げんずい)】
天保11年(1840)- 元治元年(1864)
萩城下の平安古で生まれました。松陰と出会ったのは17歳の頃で、松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。松陰の妹の文(ふみ)と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けていました。
吉田松陰の亡くなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。京都の蛤御門(はまぐりごもん。禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。
(左から、山県有朋、木戸孝允、伊藤博文)
【山県有朋(やまがた ありとも。小助(こすけ))】
天保9年(1839)- 大正11年(1922)
下級武士の子として生まれ、松下村塾に21歳の時に入りました。奇兵隊血盟(きへいたいけつめい)に加わり、その中心的な役割を担いました。高杉晋作の挙兵、四境(しきょう)戦争、戊辰(ぼしん)戦争などで奇兵隊をひきいて活躍し、明治維新後は軍隊の近代化、確立につとめ、内閣総理大臣や枢密院(すうみついん」議長などを歴任しました。
【木戸孝允(きど たかよし)】
天保4年(1833)- 明治10年(1877)
藩の医者の子として生まれました。幼名を小五郎といい8歳で桂家の養子となりました。吉田松陰とは藩校明倫館(めいりんかん)で知り合い、のちも交流をつづけ、江戸での松陰門下生たちの世話もしました。幕末には薩長同盟を結び、また西郷隆盛(さいごう たかもり)・大久保利通(おおくぼ としみち)と共に明治維新の三傑(さんけつ)と呼ばれています。
【伊藤博文(いとう ひろぶみ。利助(りすけ))】
天保12年(1841)- 明治42年(1909)
熊毛郡束荷(つかり)村に農民の子として生まれました。17歳の時に、来原良蔵(くりはら りょうぞう)に認められて、その紹介で松下村塾に入塾しました。松陰は伊藤を「周旋屋(しゅうせんや。世話好き)」と評しています。維新後は国会の開設、憲法制定など「明治日本」の確立に中心的役割を果たし、日本最初の内閣総理大臣となりました。
(左から、天野清三郎、野村和作)
【天野清三郎(あまの せいざぶろう。渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)】
天保14年(1843)-昭和14年(1939)
武士の家に生まれ、松下村塾には16歳の時に入りました。塾に寝泊まりして学び、松陰はその学識を高く評価していました。のち長州藩の海軍所に入り、馬関(ばかん)戦争や奇兵隊創設にも参加しました。明治維新後は長崎造船所の創設に貢献し、また松陰門下生の中で最も長命で、97歳まで生きました。
【野村和作(のむら わさく。靖(やすし)】
天保13年(1842)-明治42年(1909)
足軽(あしがる)の子として生まれました。16歳の時に兄の入江九一(いりえ くいち)とともに松下村塾に入塾しました。松陰が最も信頼する門下生の一人でした。
松陰没後は京都や江戸で村塾グループの尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に参加し、四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦しました。維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。
(左から、品川弥二郎、山田顕義)
【品川弥二郎(しながわ やじろう)】
天保14年(1843)- 明治33年(1900)
足軽の子として生まれ、松下村塾に15歳の時に入塾しました。松陰が亡くなった後も塾の勉強会のメンバーで、のち攘夷血盟(じょういけつめい)に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門(はまぐりごもん)の変などに参加しました。明治維新後は政府高官となってヨーロッパ諸国に滞在、外交方面で活躍したり、内務大臣などを務めました。
【山田顕義(やまだ あきよし。市之允(いちのじょう))】
弘化元年(1844)- 明治25年(1892)
武士の長男として生まれ、14歳の時に松下村塾に入塾しました。村塾の一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)や攘夷血盟のメンバーで、当時外国と日本が結んだ不平等な条約に強く反対し、尊王攘夷に参加しました。明治維新後は司法大臣を務め、また日本大学、国学院大学を創設し、教育者松陰の遺志を実現しました。
「吉田松陰の指さす先にあるものは?」
↓道の駅 萩往還については、こちら↓
道の駅 萩往還
訪問日:2014年3月15日
「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、「吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像」について話をさせてもらいました」
「明日は、萩市にある松陰神社について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「昨日は、道の駅 萩往還(はぎおうかん)について話をしたんじゃけど…」
「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をしようと思う」
「道の駅 萩往還には、吉田松陰生誕160周年記念事業の一環として、近代日本の礎を築いた教育者としての吉田松陰を紹介する「松陰記念館」と…」
「「吉田松陰と維新の群像」があるんじゃ」
(左から、高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞)
【高杉晋作(たかすぎ しんさく)】
天保10年(1839)- 慶応3年(1867)
萩城下の菊屋横町に武士の子として生まれました。19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧(そうへき)と称されました。長野の佐久間象山(さくま しょうざん)を訪ね学びました。
身分に関係なく組織された奇兵隊(きへいたい)を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献しました。幕末にたいへん活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。
【吉田松陰(よしだ しょういん)】
天保元年(1830)- 安政6年(1859)
江戸時代の終わり頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範(やまがりゅうへいがくしはん)の職を継ぎました。また、松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。
世界に眼を向けた松陰はアメリカに軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後、安政の大獄(あんせいのたいごく)によって処刑されました。
【久坂玄瑞(くさか げんずい)】
天保11年(1840)- 元治元年(1864)
萩城下の平安古で生まれました。松陰と出会ったのは17歳の頃で、松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。松陰の妹の文(ふみ)と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けていました。
吉田松陰の亡くなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。京都の蛤御門(はまぐりごもん。禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。
(左から、山県有朋、木戸孝允、伊藤博文)
【山県有朋(やまがた ありとも。小助(こすけ))】
天保9年(1839)- 大正11年(1922)
下級武士の子として生まれ、松下村塾に21歳の時に入りました。奇兵隊血盟(きへいたいけつめい)に加わり、その中心的な役割を担いました。高杉晋作の挙兵、四境(しきょう)戦争、戊辰(ぼしん)戦争などで奇兵隊をひきいて活躍し、明治維新後は軍隊の近代化、確立につとめ、内閣総理大臣や枢密院(すうみついん」議長などを歴任しました。
【木戸孝允(きど たかよし)】
天保4年(1833)- 明治10年(1877)
藩の医者の子として生まれました。幼名を小五郎といい8歳で桂家の養子となりました。吉田松陰とは藩校明倫館(めいりんかん)で知り合い、のちも交流をつづけ、江戸での松陰門下生たちの世話もしました。幕末には薩長同盟を結び、また西郷隆盛(さいごう たかもり)・大久保利通(おおくぼ としみち)と共に明治維新の三傑(さんけつ)と呼ばれています。
【伊藤博文(いとう ひろぶみ。利助(りすけ))】
天保12年(1841)- 明治42年(1909)
熊毛郡束荷(つかり)村に農民の子として生まれました。17歳の時に、来原良蔵(くりはら りょうぞう)に認められて、その紹介で松下村塾に入塾しました。松陰は伊藤を「周旋屋(しゅうせんや。世話好き)」と評しています。維新後は国会の開設、憲法制定など「明治日本」の確立に中心的役割を果たし、日本最初の内閣総理大臣となりました。
(左から、天野清三郎、野村和作)
【天野清三郎(あまの せいざぶろう。渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)】
天保14年(1843)-昭和14年(1939)
武士の家に生まれ、松下村塾には16歳の時に入りました。塾に寝泊まりして学び、松陰はその学識を高く評価していました。のち長州藩の海軍所に入り、馬関(ばかん)戦争や奇兵隊創設にも参加しました。明治維新後は長崎造船所の創設に貢献し、また松陰門下生の中で最も長命で、97歳まで生きました。
【野村和作(のむら わさく。靖(やすし)】
天保13年(1842)-明治42年(1909)
足軽(あしがる)の子として生まれました。16歳の時に兄の入江九一(いりえ くいち)とともに松下村塾に入塾しました。松陰が最も信頼する門下生の一人でした。
松陰没後は京都や江戸で村塾グループの尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に参加し、四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦しました。維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。
(左から、品川弥二郎、山田顕義)
【品川弥二郎(しながわ やじろう)】
天保14年(1843)- 明治33年(1900)
足軽の子として生まれ、松下村塾に15歳の時に入塾しました。松陰が亡くなった後も塾の勉強会のメンバーで、のち攘夷血盟(じょういけつめい)に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門(はまぐりごもん)の変などに参加しました。明治維新後は政府高官となってヨーロッパ諸国に滞在、外交方面で活躍したり、内務大臣などを務めました。
【山田顕義(やまだ あきよし。市之允(いちのじょう))】
弘化元年(1844)- 明治25年(1892)
武士の長男として生まれ、14歳の時に松下村塾に入塾しました。村塾の一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)や攘夷血盟のメンバーで、当時外国と日本が結んだ不平等な条約に強く反対し、尊王攘夷に参加しました。明治維新後は司法大臣を務め、また日本大学、国学院大学を創設し、教育者松陰の遺志を実現しました。
「吉田松陰の指さす先にあるものは?」
↓道の駅 萩往還については、こちら↓
道の駅 萩往還
訪問日:2014年3月15日
「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、「吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像」について話をさせてもらいました」
「明日は、萩市にある松陰神社について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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