通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

リバイバルトレイン急行「ちどり」号

2013年09月09日 | 広島の話題


「昨日(2013年9月8日)の14時すぎころJR広島駅におったら、電車の前に人だかりができとった」

「たくさんの人が写真を撮りよってじゃね。で、この電車は?」

「むかし走っとった急行「ちどり」で、今年の夏限定で復活させとるんじゃそうな」



広島市と米子市を結ぶ陰陽連絡線として親しまれた急行ちどりが31日、11年ぶりにJR芸備線広島―三次間で復活運行した。
広島駅(南区)には鉄道ファン約200人が詰めかけ、クリーム色に赤の国鉄カラーを再現した姿を写真に収めた。

ちどりのヘッドマークを付けた車両は午前10時55分、定員いっぱいの112人を乗せて出発。
乗客の会社員阿部範昭さん(56)=三原市=は「大学受験のときに乗った。ツートンカラーが懐かしい」と喜んだ。

ちどりは1953年に快速として運行を始めた。
66~90年に広島―米子間、90~2002年に広島―備後落合間を急行で走った。
復活運行はJRグループのデスティネーションキャンペーンの一環で9月1、7、8日も広島―三次間を走る。

(「急行ちどり11年ぶり復活運行」中国新聞 2013年9月1日)




「…? 広島から米子まで、電車で行けるんかいね?」

「芸備線(げいびせん)で、広島駅から三次(みよし)駅を経由して、庄原市にある備後落合(びんごおちあい)駅まで行く。備後落合駅から木次線(きすきせん)に乗り換えると、島根県松江市にある宍道(しんじ)駅まで行ける。ほいで、宍道駅から山陰本線(さんいんほんせん)に入って、米子まで行くことができるんじゃの」

「木次線いうたら、奥出雲おろちループがあるね」

「ありゃ、国道314号にある日本一のループ式道路で、木次線から見ることができるんじゃ」

「ループ全体が、とぐろを巻く「ヤマタノオロチ」を連想させるところから、「おろちループ」という名前がついたんよね」

「「ちどり」という名前も、松江城の別名「千鳥城」にちなんで名づけられたんじゃそうな」

「千鳥?」

「お城の形が、千鳥が羽を広げたように見えるところから、千鳥城と呼ばれるようになったそうじゃ」

「へぇ」











「今回は、広島―三次間を走ったんじゃの」








↓奥出雲おろちループについては、こちら↓

道の駅 奥出雲おろちループ





↓松江城については、こちら↓

松江城ホームページ





撮影日:2013年9月9日





「今日は、この夏限定で復活した、リバイバルトレイン急行「ちどり」号について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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左利きの人 増加中

2013年09月03日 | 日記


(中国新聞夕刊 2013年8月26日)



「へぇ、左利きの人が増えとるんじゃね」

「関西福祉科学大学の八田武志(はった たけし)教授によると、ここ20年で、女性の左利きが増えたそうじゃ」

「むかしは、左利きに偏見があって、右利きに矯正されることが多かった、って書いてあるけど、どんな偏見があったんじゃろ?」

「日本でいうと、和食は箸を右手で持つよの」

「えーっと…、箸を右手で持ちあげて、左手を箸の下に添えて受ける…。あぁ、そうか。右手で持つよね」

「ほいじゃけぇ、右手で箸が使えるように、右利きに矯正する。あと、イスラーム教では「左手は不浄とされる」んじゃの」

「用を足すときに、左手を使うんじゃったよね」

「最近では、そういう偏見もなくなってきて、無理に矯正することが減ったけぇ、左利きの人が増えてきとるそうじゃ」

「左利きじゃったら、パソコンのマウスを使うのが困るよ」

「コントロールパネルでマウスの設定をすりゃ、左利きでも使えるようにはなる。ほいじゃが、マウスの形状自体は基本、右利き用じゃもんの」

「フライ返しとかおたま、急須(きゅうす)なんか、左利きの商品が少ないよね」

「あとは、駅の自動改札は右利き用に作られとるよの」

「編み物の本も、右利き用で書かれとるね」

「…?」

「編み物は、右利きの人は右から左へ編んでいくんじゃけど、左利きの人は左から右へ編んでいくんよ」

「なるほど…。「需要が少なく採算が取れない」(日本ヴォーグ社広報担当)という理由で、左利き用の手芸本を出版したことがないんそうじゃ」

「この記事にも書いてあるけど、「イラストの横に鏡を立てると反転するので左利きの人でも理解でき」るんじゃね」



「実はわし、左利きじゃったんかもしれん」

「そうじゃったっけ?」

「携帯で文字を打つのは左手の親指で、トランプをくるときは、右手で束を持って左手でくるし、トランプを配るのも左手じゃ」

「トランプをくる?」

「トランプを「切る」ことを、トランプを「繰る(くる)」いうて言わんかいの?」

「トランプは「切る」じゃろ?」

「まぁ、ええ。あと、おにぎりをにぎるときは、左手が上にくるよのう」

「お義父さんかお義母さんが矯正しちゃったんかね?」

「聞いたことはあるんじゃが、矯正したことはないそうじゃ」

「うーん、うちにはよう分からんけど、お父さんは中途半端な左利きじゃなんじゃない?」

「中途半端な左利き?」

「たとえば、右利きの方が便利じゃ思うて、自分で右利きに矯正してしもうたとか」

「そういうもんかのう…」





「今日は、最近、左利きの人が増えていること、左利きで不便なことについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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皇居前、すし詰めの避難民 関東大震災

2013年09月01日 | 日記
「今から90年前、1923年(大正12年)9月1日の11時58分に、関東大震災が起こったんじゃ」

「この日は、「防災の日」でもあるよね。でも、なんでまた関東大震災なん?」

「宮崎駿(みやざき はやお)監督の最新作『風立ちぬ』でも取り上げられとるし…」

「そういや、この映画では、関東大震災の地響きや、飛行機のプロペラ音、蒸気機関車の蒸気などの効果音を人の声で表現しとってんじゃろ?」

「…らしいのう。わしゃ、特に違和感は感じんかったが。8月18日の中国新聞にも、次のような記事が載っとったんじゃ」





(中国新聞 2013年8月18日)




「おおぉ。人人人」

「この記事によると、地震直後に発生した火災から逃れて、皇居前広場に集まった30万人もの人を撮影したものじゃそうな」

「大八車に家財道具を載せて、ここに逃げて来たんじゃね」

「これは報知新聞が撮影した3枚の写真をつなぎ合わせたもので、今回、長さ4.6メートルのパネルに仕上げた。これを墨田区(すみだく)にある東京都慰霊堂で、8月20日から一般公開されるそうじゃ」

「東京都慰霊堂って?」

「関東大震災による遭難者、約58,000人の遺骨を納めるための霊堂として、1930年(昭和5年)に、「震災記念堂」という名前で建てられたものじゃそうな」

「なぜ、ここに建てられたん?」

「東京都慰霊堂のある墨田区の横網町(よこあみちょう)公園には、もともと、兵隊の軍服や軍靴などを製造しとった陸軍の被服廠(ひふくしょう)があったんじゃの」

「広島にも、陸軍の被服支廠があったね」

「関東大震災が起こったころは、被服廠が立ち退いたあとで、公園に整備しとる途中だったそうじゃ」



半藤/
というわけで、造成中のこの広場が絶好の避難場所になったわけですが、多くの人が家財道具や布団を担いでここに逃げ込んだ。
飛んで来た火の粉がそうした荷物に燃え移って、猛火が竜巻のような旋風となって避難民を飲み込んだそうです。
その数三万八千人ともいわれておりまして、いずれにせよたいへんな犠牲者を出した場所なんですね。

(『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫 2013年8月)






「ここだけで、3万8000人もの方が亡くなられたん?」

「…じゃそうな。で、ここから奇跡的に生き延びた人のうちの一人が、当時9歳だった宮崎駿氏のお父さん」

「ええっ!? ほんま?」

「地震であちこちから火の手が上がるのを見た宮崎氏のおじいさん。自宅で家族と工員と一緒に飯を腹いっぱい食べたあと、足袋裸足で逃げだしたそうじゃ」

「足袋裸足って?」

「底にゴムが張ってある足袋のことじゃそうな」

「工員というのは?」

「当時は、宮崎飛行機という会社を経営されとったそうじゃ。で、腹いっぱいになったあと逃げ込んだのが、半藤氏が「逃げた人はほとんど全滅とばかり思っていた」と語った、例の陸軍被服廠跡」



宮崎/
そこからどういうふうに逃げたのか、くわしくはわからないんですけど、親父は、妹の手をひいて助けたというのが自慢でした。
「腹いっぱい食っていたのと、足袋裸足のおかげで助かった」とも言っていました。
工員さんは全部で二十五人ぐらいいたらしいですけど、家族をふくめてだれ一人死なずに済みました。

(同上)




「おじいさんの機転がなかったら、宮崎さんもこの世に生まれてなかったかもしれんのじゃね」

「だれ一人死なずに済んだ、というのがすごいよのう」

「そういや、「震災記念堂」として建てられた建物が「東京都慰霊堂」と名前を変えたのは、なんで?」

「1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲などによる犠牲者、約10万5000人の遺骨も併せて祀ってあるんで、1951年(昭和26年)から「東京都慰霊堂」と名前を変えて、今に至っとるそうじゃ」





↓東京都慰霊堂については、こちら↓

「東京都慰霊堂」東京都立横網町公園





↓『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』については、こちら↓

『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫





「今日は、今から90年前に起こった関東大震災で、皇居前に逃げた避難民と、映画監督の宮崎駿氏のお父さん、おじいさんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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