通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

皇居前、すし詰めの避難民 関東大震災

2013年09月01日 | 日記
「今から90年前、1923年(大正12年)9月1日の11時58分に、関東大震災が起こったんじゃ」

「この日は、「防災の日」でもあるよね。でも、なんでまた関東大震災なん?」

「宮崎駿(みやざき はやお)監督の最新作『風立ちぬ』でも取り上げられとるし…」

「そういや、この映画では、関東大震災の地響きや、飛行機のプロペラ音、蒸気機関車の蒸気などの効果音を人の声で表現しとってんじゃろ?」

「…らしいのう。わしゃ、特に違和感は感じんかったが。8月18日の中国新聞にも、次のような記事が載っとったんじゃ」





(中国新聞 2013年8月18日)




「おおぉ。人人人」

「この記事によると、地震直後に発生した火災から逃れて、皇居前広場に集まった30万人もの人を撮影したものじゃそうな」

「大八車に家財道具を載せて、ここに逃げて来たんじゃね」

「これは報知新聞が撮影した3枚の写真をつなぎ合わせたもので、今回、長さ4.6メートルのパネルに仕上げた。これを墨田区(すみだく)にある東京都慰霊堂で、8月20日から一般公開されるそうじゃ」

「東京都慰霊堂って?」

「関東大震災による遭難者、約58,000人の遺骨を納めるための霊堂として、1930年(昭和5年)に、「震災記念堂」という名前で建てられたものじゃそうな」

「なぜ、ここに建てられたん?」

「東京都慰霊堂のある墨田区の横網町(よこあみちょう)公園には、もともと、兵隊の軍服や軍靴などを製造しとった陸軍の被服廠(ひふくしょう)があったんじゃの」

「広島にも、陸軍の被服支廠があったね」

「関東大震災が起こったころは、被服廠が立ち退いたあとで、公園に整備しとる途中だったそうじゃ」



半藤/
というわけで、造成中のこの広場が絶好の避難場所になったわけですが、多くの人が家財道具や布団を担いでここに逃げ込んだ。
飛んで来た火の粉がそうした荷物に燃え移って、猛火が竜巻のような旋風となって避難民を飲み込んだそうです。
その数三万八千人ともいわれておりまして、いずれにせよたいへんな犠牲者を出した場所なんですね。

(『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫 2013年8月)






「ここだけで、3万8000人もの方が亡くなられたん?」

「…じゃそうな。で、ここから奇跡的に生き延びた人のうちの一人が、当時9歳だった宮崎駿氏のお父さん」

「ええっ!? ほんま?」

「地震であちこちから火の手が上がるのを見た宮崎氏のおじいさん。自宅で家族と工員と一緒に飯を腹いっぱい食べたあと、足袋裸足で逃げだしたそうじゃ」

「足袋裸足って?」

「底にゴムが張ってある足袋のことじゃそうな」

「工員というのは?」

「当時は、宮崎飛行機という会社を経営されとったそうじゃ。で、腹いっぱいになったあと逃げ込んだのが、半藤氏が「逃げた人はほとんど全滅とばかり思っていた」と語った、例の陸軍被服廠跡」



宮崎/
そこからどういうふうに逃げたのか、くわしくはわからないんですけど、親父は、妹の手をひいて助けたというのが自慢でした。
「腹いっぱい食っていたのと、足袋裸足のおかげで助かった」とも言っていました。
工員さんは全部で二十五人ぐらいいたらしいですけど、家族をふくめてだれ一人死なずに済みました。

(同上)




「おじいさんの機転がなかったら、宮崎さんもこの世に生まれてなかったかもしれんのじゃね」

「だれ一人死なずに済んだ、というのがすごいよのう」

「そういや、「震災記念堂」として建てられた建物が「東京都慰霊堂」と名前を変えたのは、なんで?」

「1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲などによる犠牲者、約10万5000人の遺骨も併せて祀ってあるんで、1951年(昭和26年)から「東京都慰霊堂」と名前を変えて、今に至っとるそうじゃ」





↓東京都慰霊堂については、こちら↓

「東京都慰霊堂」東京都立横網町公園





↓『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』については、こちら↓

『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫





「今日は、今から90年前に起こった関東大震災で、皇居前に逃げた避難民と、映画監督の宮崎駿氏のお父さん、おじいさんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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