通でがんす

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特殊潜航艇 甲標的甲型

2011年12月30日 | まんが・テレビ・映画
「先日、大和ミュージアムに行った時、NHKドラマ「真珠湾からの帰還」(2011年12月10日放送)で使われた、特殊潜航艇(とくしゅせんこうてい)甲標的(こうひょうてき)甲型のセットが展示してあったんじゃ」



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九七式転輪羅針儀







【諸元】

全没排水量/46トン
全長/23.9m
全幅/1.85m
主機/600馬力電動機
最大速度/水中19ノット
乗員/2名
兵装/45センチ発射管×2
安全潜航深度/100m

(展示パネルより)



「甲標的って、人間魚雷のような特攻兵器なんかね?」

「確かに、太平洋戦争末期には、蛟龍(こうりゅう。正式名称:甲標的丁型)や人間魚雷の回天(かいてん)のような特攻兵器もあった。ところが、甲標的を開発した当初(1931年)は、そういう発想はなかったそうじゃ」


検討されたアイデアの中に、横尾敬義予備海軍大佐の提案した「魚雷肉攻案」があった。
これは魚雷に人間が乗って誘導し、確実に命中させるというものであった。
この提案は課員の強い興味を集めたが、当時の海軍には必死兵器を採用しないという伝統があったことから発想には変更が加えられ、小型の潜航艇から魚雷を発射するものとなった。

(略)

軍令部総長は体当たり兵器ではないことを確認して了解

(「甲標的」ウィキペディア)



「なるほど。「必死兵器を採用しない」「体当たり兵器ではない」ということで開発が許可されたんじゃね」

「艦隊決戦時、母艦から発進して、敵艦隊が通る海域で待ち伏せる。搭載した魚雷で敵艦隊に奇襲攻撃を仕掛けた後、母艦に回収される。甲標的はこういう構想で作られたそうじゃ」

「1941(昭和16)年の真珠湾攻撃で使われたんじゃね」

「5基が投入されて、これが初陣じゃったそうな」

「なんで、大和ミュージアムに展示してあるん?」

「試作・製造が行われたのが、呉海軍工廠(こうしょう)じゃったことが関係しとるんじゃないんかの。あと、呉市音戸(おんど)町の大浦岬にP基地が作られて、ここで甲標的の製造と整備、搭乗員の訓練を担当したそうじゃ。もっとも、この基地が稼動したのは1942年(昭和17)10月からということじゃそうな」

「このドラマ、実は観とらんのよ。どんな話じゃったんかね?」

「わしも観とらんのじゃ。NHKさん、再放送をよろしくお願いしますの」


昭和16年、日米の緊張が高まるなか、「甲標的」という二人乗りの特殊潜航艇の搭乗員に選ばれた酒巻和男少佐(青木崇高)は、岩佐直治大尉(平岳大)らとともに愛媛県佐多岬半島の三机で訓練に励んでいた。
酒巻たちの宿となった旅館の娘・岩宮緑(蓮佛美沙子)は、訓練生から慕われていた。

同年12月8日、酒巻たち10名は5艇の甲標的に乗り込み、真珠湾攻撃に参加する。
しかし、全艇帰還せず9人が戦死。
ただひとり酒巻だけが生き残り、太平洋戦争における捕虜第一号となった。
大本営は戦意高揚のために9名の戦死者を「九軍神」と讃える一方、捕虜となった酒巻の存在を隠そうとした。
酒巻はアメリカの収容所で捕虜生活を続けるうちに、なぜ自分だけが生き残ったのか、生かされた自分は何をすべきなのかを考えていく。

(「真珠湾からの帰還 あらすじ」展示パネルより)



↓NHKドラマ「真珠湾からの帰還」については、こちら↓

NHK 土曜ドラマスペシャル「真珠湾からの帰還」






訪問日/2011(平成23)年12月18日





↓大和ミュージアムについては、こちら↓

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム オフィシャルWebサイト



↓大和ミュージアムについての関連記事は、こちら↓

夕日に眠る 戦艦大和

大和ミュージアムの正式名称は何?




「今日は、大和ミュージアムに展示してある特殊潜航艇 甲標的甲型について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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