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日本サッカーがメキシコ五輪で銅メダルを獲得した時の監督は?

2010年05月23日 | スポーツ

6月11日(金)から、サッカーのワールドカップ(W杯南アフリカ大会)が始まりますのう。
日本の緒戦は、14日(月)の対カメルーン戦じゃ。



【問題】
5月24日(月)から広島市で回顧展が開かれる、1968(昭和43)年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した時の日本サッカーの監督だったのは、次のうち誰でしょうか?

1.小城得達(おぎ ありたつ)
2.長沼健(ながぬま けん)
3.森孝慈(もり たかじ)
4.渡辺正(わたなべ まさし)









【正解】
2.長沼健



【解説】
広島県サッカー協会は創立85周年記念事業として24日から、広島市中区の広島県民文化センターで「元日本サッカー協会会長 長沼健さん回顧展」を開く。
2008(平成20)年6月2日に77歳で亡くなった長沼さんの足跡を振り返り、遺品などを初公開する。

長沼さんは広島市中区出身。
全国制覇した旧広島高師付属中(現広島大付属高)時代から、約60年間の歩みを「ニッポン.サッカーの軌跡」と題してパネルで紹介する。

日本代表監督を務め、銅メダルを獲得したメキシコ五輪(1968年)で対戦国を細かく分析したノート、02年ワールドカップ(W杯)前には日本招致を世界各国に働き掛けるため、30カ国・地域を巡ったパスポートなどを展示する。
同協会の釜本邦茂(かまもと くにしげ)名誉副会長や日本代表の岡田武史(おかだ たけし)監督たちは、長沼さんとの思い出のメッセージを寄せている。

「24日から故長沼健氏回顧展」中国新聞 2010年5月16日)



日時:2010年5月24日(月)~30日(日)
    ※5月24日は15:30からオープニングイベントを行います。

時間:10:00~18:00
    ※5月24日のみ15:30~18:00

会場:広島県民文化センター 地下第3展示室

入場料:無料



↓くわしくは、こちら↓

財団法人広島県サッカー協会



回顧展がどんな内容かというと…。



長沼さんの遺族や日本サッカーミュージアム(東京)が保管している遺品など約140点を紹介する。

古河電工(現J2ジェフユナイテッド千葉)の現役時代に着ていたユニホーム、日本代表監督としてメキシコ五輪の対戦相手の戦術や選手の特徴を克明に記したノート、69年に国際サッカー連盟(FIFA)コーチングスクールで取得した認定証…。
日本協会会長時代の94年~96年、地球19周分にあたる約75万キロを巡り、世界30カ国・地域でW杯日本開催を訴えた当時のパスポートなども並ぶ。

長沼さんの生涯を節目で6つに分けたコーナーを設ける。

1.広島高師付属中(現広島大付属高)から関学大、中大までの学生時代
2.社会人の古川電工時代
3.日本代表監督時代
4.日本協会専務理事などで協会に携わった協会改革時代
5.W杯の日本招致に尽力した協会副会長・会長時代
6.障害者サッカーの普及などに尽力した晩年

(「長沼健さん回顧展 24日から」中国新聞 2010年5月22日)




広島で「ケンさん」といえば、広島カープの投手・高橋建しか思い浮かばん人も多いじゃろう。

長沼健をご存じない方もいらっしゃると思うので、簡単な年表を…。



1930(昭和5)年9月5日 広島市中区生まれ。
父親、実兄もサッカー選手であったため、小学校からサッカーを始める。

1945(昭和20)年8月 現・安佐南区沼田付近で被爆。

1947(昭和22)年 広島高師附属中で、全国中等学校選手権優勝。
翌48年、国体でも優勝。

1950(昭和25)~52年 関学大で関西学生リーグ3連覇。

1953(昭和28)・54年 中央大で全日本大学サッカー選手権大会で2年連続準優勝。

1954(昭和29)年 日本が初めて参加したW杯スイス大会の日本代表に選出され、対韓国戦で日本初ゴールを決める。

1960(昭和35)年 古河電工で実業団チームとして初めて天皇杯を制覇。
翌61年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成。

1962(昭和37)年 33歳で日本代表監督に抜擢される。

1964(昭和39)年 東京五輪で8強入りを果たす。

1968(昭和43)年 メキシコ五輪で銅メダル獲得をする。

1976(昭和51)年 日本代表監督を退任。
以降、日本協会専務理事などを歴任し、協会改革に携わる。

1994(平成6)年 日本協会会長となる。

1996(平成8)年 日韓共催でのW杯開催が決まる。

2004(平成16)年、勲三等旭日中綬章(くんさんとうきょくじつちゅうじゅしょう)。

2005(平成17)年 第1回日本サッカー殿堂入り。

2008(平成20)年6月2日 肺炎のため死去。
77歳。



W杯に出場する日本代表チームの出陣式が5月22日(土)、東京・国立代々木競技場の「サムライブルーパーク」で行われましたのう。
1954(昭和29)年のW杯予選で日本初ゴールを決めたのが、長沼じゃ。

最近でこそ、日本がW杯に出場できるようになったが、この当時は…。



この頃日本サッカーの目標はオリンピックであり、長沼はワールドカップとは何かよく分からずやっていたと言う。
この頃の日本サッカーはそのような時代であった。

「長沼健」ウィキペディア)



長年、日本サッカー界のために働いた長沼じゃが、古里の広島サッカーをいつも気にかけていたそうじゃ。



悲しい顔を2度見た。

最初は1990(平成2)年の暮れだった。
長沼さんは93年春スタートを目指したプロリーグ(Jリーグ)対策本部長。
有力視されていたマツダは参入に慎重姿勢だった。
「広島サッカーは何を考えているのか。Jリーグに加わらないでいると発展はないよ」。
地元の熱意でマツダは一転翻意(ほんい)し、今のサンフレッチェ広島が生まれた。

2度目は96年12月。
2002(平成14)年W杯の有力な国内開催地と見られていた広島市が、会場の広島ビッグアーチに屋根は架けられないとして、招致を断念した時だ。
落胆した表情が今でも目に浮かぶ。
「最高の平和へのアピールになったのに」。
多くは語らなかった。

「日本サッカーの羅針盤 評伝・長沼健さん」中国新聞 2008年6月3日)




そして、晩年の長沼が力を注いだのが障害者サッカー。



日本ハンディキャップサッカー連盟の会長を担い、昨年には広島で大会も開いた。

一緒に担当した広島市安佐南区の特定非営利活動法人(NPO法人)「スポーツオフィス・ワン」の岩崎全記理事長(44)は「サッカーをしたくてもなかなかできない人がいる。これからの人生はそんな人にサッカーをささげたい」と語っていたのが耳に残るという。

「「広島が生んだ巨星」 長沼健さん死去、惜しむ声相次ぐ」中国新聞 2008年6月3日)




広島県サッカー協会は昨年、創立85周年を迎え、『広島サッカー85年史』を発行された。
売上の一部は、将来を担うジュニア選手の育成に使われるそうじゃ。





選択肢1の小城得達は広島市出身の元サッカー選手、指導者。現広島県サッカー協会会長。メキシコ五輪でセンターバックとして活躍。東京五輪では決勝ゴールを決め、ベスト8進出に貢献。

選択肢3の森孝慈は広島県生まれの元サッカー選手、指導者。メキシコ五輪でディフェンダーとして活躍。

選択肢4の渡辺正は広島市出身の元サッカー選手、指導者。メキシコ五輪で活躍。



↓サッカーについての過去の記事は、こちら↓

サンフレッチェ広島のJリーグ最初の公式戦で、初得点を決めた選手は誰?

今年1月、皆実高校が全国高校サッカー選手権で優勝した時のユニフォームの色は?



今日は、長沼健について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。


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