~小瀬(おぜ)~
「前回は、西国街道にある、関戸(せきど)から小瀬への山越えの道・小瀬峠を紹介したんじゃけど…」
「今日は、小瀬じゃ」
「これは?」
「小瀬峠を降りたあたりにある、小瀬村と岩国市の合併記念碑。裏面には、次のようなことが刻んであったのう」
1889年(明治22年) 小瀬川村設立
1899年(明治32年) 小瀬川村を小瀬村と和木村に分離
1955年(昭和30年) 3月31日 小瀬村廃村
同年4月1日 岩国市と合併
「和木村って、今の和木町(わきちょう)のこと?」
「ほうじゃの。1973年(昭和48年)に町制を施行されたそうじゃ」
「子どもが小(こ)まいころは、よう(=よく)蜂ヶ峯公園(はちがみねこうえん)へ遊びに行きよったね」
「アスレチックがあったのう」
「長い(全長255メートル)ローラーすべり台が、楽しかったよ。おしりが痛(いと)うなるけど」
↓蜂ヶ峯公園については、こちら↓
蜂ヶ峯総合公園
「花がきれい」
「小瀬川沿いに出ると、吉田松陰(よしだ しょういん)が詠んだ詩の碑がある」
安政六年五月二十八日
吉田松陰作
夢路にも
かへらぬ関を
打ち越えて
今をかぎりと
渡る小瀬川
昭和四十四五月二十八日
岸 信介 書
「関戸(せきど)本陣跡にも、松陰先生が詠まれた詩の碑があったよね」
「あれは、長州藩主について江戸へ学問をしに行かれたときの詩。今回のは、幕府の命令で江戸に護送されるときの詩なんじゃ」
「護送って、なんか悪いことをされちゃったん?」
「安政5年(1858年)、幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだことを非難して、老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を企てたんじゃの」
「幕府の批判をされたんじゃね」
「当然、藩の牢屋に入れられた。翌6年(1859年)には、幕府の命令で江戸に送られることになったんじゃ」
「そのときに詠まれた詩なん?」
「「かへらぬ(=帰らぬ)関を」とあるように、この年の10月27日、江戸の小塚原(こづかはら)で処刑されたんじゃ。享年(きょうねん)30歳」
歴史の道
旧山陽道跡
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(六四五)により、都(奈良)から太宰府(だざいふ)までの官道として整備され、七道中唯一の大路(おおじ)であった。
また、古代には「かげとものみち(光の面)」とも呼ばれていた。
この道は、安芸(あき)国高庭(たかにわ。広島県大野町高畠)の駅家(うまや)から遠管(おか。大竹市小方)の駅家を過ぎ小瀬(おぜ)川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)に入り、山道を越えて石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)に至る道であった。
中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大坂から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で西国大名(さいこくだいみょう)の参勤交代(さんきんこうたい)等により、往来も盛んで、国内陸路の主要道として利用された。
道幅は、慶長十二年(一六〇七)に、二間(約三.九米)と定めている。
小瀬川の渡り場跡は、ここより南東約五十米付近にあり、茶屋は、西方約百米付近に設けられていた。
平成十年吉日
岩国市教育委員委員会
「かげとものみち、って?」
「わしも知らんかったけぇ、調べてみたら、「かげとも」は「影面」と書くそうじゃ」
「影の面?」
「「かげ」は「光」の意味があるんじゃそうな」
「ということは、「かげとも」は「光の面」っていうこと?」
「光の面、太陽のある方向。つまり、「かげとも」は南のこと。そこから、山陽道(さんようどう)の古称として使われたそうじゃ」
「籌勝院(ちゅうしょういん)は、幕末にあった長州戦争のとき遊撃隊の本陣が置かれて、兵士の墓もあるそうじゃ。この日は戸が閉めてあって、中には入れんかったがの」
「小瀬川の河川敷には、桜と菜の花が咲いとったのう」
「桜はほとんど散ってしもうとるんじゃね」
「小瀬川には小瀬川の渡しがあって、むかしはここを渡りよった。今は小瀬川の上流側に橋があるけぇ、そこを渡っていくことにする」
小瀬川
「山口県関戸(せきど)から始めた西国街道の旅も、小瀬を越えて、ようやく広島県に入るんじゃ」
「この小瀬川が県境になるんじゃね」
「ほいじゃけぇ、この橋の名前も「両国橋」」
「両国橋って、東京にある橋じゃん」
「2つの国の国境を流れる川に架けられとる橋のことを、「両国橋」と呼ぶそうじゃ」
「へぇ、そうなんじゃ」
「ここは安芸国(あきのくに)と周防国(すおうのくに)を結ぶ橋。東京にあるのは武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)結ぶ橋になるんじゃの。余談じゃが、ここの両国橋は1921年(大正10年)に架けられたそうじゃ」
「橋の上流側には、新しい橋を架けるようじゃのう」
「さて、ここで質問です。山口県側から見た両国橋(写真上)と、広島県側から見た両国橋(写真下)では、なにが違うでしょうか?」
「そんなん簡単じゃん。ガードレールの色が違うんよ」
「ピンポーン! 正解じゃ」
「山口県のガードレールの色は、オレンジ色なんよね」
「1963年(昭和38年)、山口県で国体が開かれた時に県道のガードレールを塗り替えたそうじゃ」
訪問日:2014年4月11日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
「今日は、西国街道にある小瀬について話をさせてもらいました」
「次回は、木野川(このがわ)の渡しを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「前回は、西国街道にある、関戸(せきど)から小瀬への山越えの道・小瀬峠を紹介したんじゃけど…」
「今日は、小瀬じゃ」
「これは?」
「小瀬峠を降りたあたりにある、小瀬村と岩国市の合併記念碑。裏面には、次のようなことが刻んであったのう」
1889年(明治22年) 小瀬川村設立
1899年(明治32年) 小瀬川村を小瀬村と和木村に分離
1955年(昭和30年) 3月31日 小瀬村廃村
同年4月1日 岩国市と合併
「和木村って、今の和木町(わきちょう)のこと?」
「ほうじゃの。1973年(昭和48年)に町制を施行されたそうじゃ」
「子どもが小(こ)まいころは、よう(=よく)蜂ヶ峯公園(はちがみねこうえん)へ遊びに行きよったね」
「アスレチックがあったのう」
「長い(全長255メートル)ローラーすべり台が、楽しかったよ。おしりが痛(いと)うなるけど」
↓蜂ヶ峯公園については、こちら↓
蜂ヶ峯総合公園
「花がきれい」
「小瀬川沿いに出ると、吉田松陰(よしだ しょういん)が詠んだ詩の碑がある」
安政六年五月二十八日
吉田松陰作
夢路にも
かへらぬ関を
打ち越えて
今をかぎりと
渡る小瀬川
昭和四十四五月二十八日
岸 信介 書
「関戸(せきど)本陣跡にも、松陰先生が詠まれた詩の碑があったよね」
「あれは、長州藩主について江戸へ学問をしに行かれたときの詩。今回のは、幕府の命令で江戸に護送されるときの詩なんじゃ」
「護送って、なんか悪いことをされちゃったん?」
「安政5年(1858年)、幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだことを非難して、老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を企てたんじゃの」
「幕府の批判をされたんじゃね」
「当然、藩の牢屋に入れられた。翌6年(1859年)には、幕府の命令で江戸に送られることになったんじゃ」
「そのときに詠まれた詩なん?」
「「かへらぬ(=帰らぬ)関を」とあるように、この年の10月27日、江戸の小塚原(こづかはら)で処刑されたんじゃ。享年(きょうねん)30歳」
歴史の道
旧山陽道跡
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(六四五)により、都(奈良)から太宰府(だざいふ)までの官道として整備され、七道中唯一の大路(おおじ)であった。
また、古代には「かげとものみち(光の面)」とも呼ばれていた。
この道は、安芸(あき)国高庭(たかにわ。広島県大野町高畠)の駅家(うまや)から遠管(おか。大竹市小方)の駅家を過ぎ小瀬(おぜ)川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)に入り、山道を越えて石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)に至る道であった。
中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大坂から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で西国大名(さいこくだいみょう)の参勤交代(さんきんこうたい)等により、往来も盛んで、国内陸路の主要道として利用された。
道幅は、慶長十二年(一六〇七)に、二間(約三.九米)と定めている。
小瀬川の渡り場跡は、ここより南東約五十米付近にあり、茶屋は、西方約百米付近に設けられていた。
平成十年吉日
岩国市教育委員委員会
「かげとものみち、って?」
「わしも知らんかったけぇ、調べてみたら、「かげとも」は「影面」と書くそうじゃ」
「影の面?」
「「かげ」は「光」の意味があるんじゃそうな」
「ということは、「かげとも」は「光の面」っていうこと?」
「光の面、太陽のある方向。つまり、「かげとも」は南のこと。そこから、山陽道(さんようどう)の古称として使われたそうじゃ」
「籌勝院(ちゅうしょういん)は、幕末にあった長州戦争のとき遊撃隊の本陣が置かれて、兵士の墓もあるそうじゃ。この日は戸が閉めてあって、中には入れんかったがの」
「小瀬川の河川敷には、桜と菜の花が咲いとったのう」
「桜はほとんど散ってしもうとるんじゃね」
「小瀬川には小瀬川の渡しがあって、むかしはここを渡りよった。今は小瀬川の上流側に橋があるけぇ、そこを渡っていくことにする」
小瀬川
「山口県関戸(せきど)から始めた西国街道の旅も、小瀬を越えて、ようやく広島県に入るんじゃ」
「この小瀬川が県境になるんじゃね」
「ほいじゃけぇ、この橋の名前も「両国橋」」
「両国橋って、東京にある橋じゃん」
「2つの国の国境を流れる川に架けられとる橋のことを、「両国橋」と呼ぶそうじゃ」
「へぇ、そうなんじゃ」
「ここは安芸国(あきのくに)と周防国(すおうのくに)を結ぶ橋。東京にあるのは武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)結ぶ橋になるんじゃの。余談じゃが、ここの両国橋は1921年(大正10年)に架けられたそうじゃ」
「橋の上流側には、新しい橋を架けるようじゃのう」
「さて、ここで質問です。山口県側から見た両国橋(写真上)と、広島県側から見た両国橋(写真下)では、なにが違うでしょうか?」
「そんなん簡単じゃん。ガードレールの色が違うんよ」
「ピンポーン! 正解じゃ」
「山口県のガードレールの色は、オレンジ色なんよね」
「1963年(昭和38年)、山口県で国体が開かれた時に県道のガードレールを塗り替えたそうじゃ」
訪問日:2014年4月11日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
「今日は、西国街道にある小瀬について話をさせてもらいました」
「次回は、木野川(このがわ)の渡しを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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