通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

仁保島西新開の堤防跡を歩く(その3)

2016年09月29日 | 見て歩き
千田廟公園から県病院まで

江戸堤

ブラタモリ 広島編






↓前回記事は、こちら↓

仁保島西新開の堤防跡を歩く(その2)





先週の土曜日(9月24日)、

NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。





番組の中で、

タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が、

案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さん

によって紹介されました。





この干拓地は江戸時代、広島藩が比治山(ひじやま)の南側から、

当時はまだ海の中にあった

仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを干拓したもので、

「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばるところ。





今の広島の街は、

広島デルタと呼ばれる三角州の上に作られた街で、

毛利輝元(もうり てるもと)が築いた広島城も、

この三角州の上に築かれとるんじゃの。





そして江戸時代以降、遠浅の瀬戸の海を、

南へ南へと埋め立てていって広島の街が作られたんじゃ。





仁保島西新開も、その干拓地のうちのひとつ。





この仁保島西新開の堤防跡を4回にわたって紹介しとりますが、

今回はその3回目

千田廟公園(せんだびょうこうえん)から県病院までじゃ。





↓『ブラタモリ』については、こちら↓

「ブラタモリ」NHK





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館







千田廟公園は明治時代、

宇品港(うじなこう。今の広島港)の築港に尽力された

広島県令(けんれい。今の県知事)・千田貞暁(せんだ さだあき)の

功績をたたえて作られた公園で、

公園の中には銅像も建てられている。





小学2年までこのあたりに住んどったわしも

よう(=よく)遊びに行きよった。





先ほども紹介したとおり、

広島は三角州の上に作られた街。





遠浅なので、大きな船が入ることができず、

沖合の宇品島(現在の元宇品)あたりで

小舟に乗り換えて上陸しよった。





1880年(明治13年)、前任地の大分から船に乗って

広島へ赴任してきた千田貞暁も、

上陸するときに苦労されたそうじゃ。





そこで千田貞暁は、広島が発展していくためには

港の整備とそこへ続く道路の整備が必要と考え、

宇品築港を決意。





5年余りの歳月と

30万円余の工事費をかけて完成させたのが、

宇品港(今の広島港)で、

仁保島西新開から宇品島まで間を

干拓して作られたのが、「宇品新開」なんじゃ。







千田廟公園の西側を、

南へとまっすぐに伸びる道路。

ここは宇品新開の堤防跡。





道の左側(東側)が宇品新開で、

右側(西側)は、1940年から1947年にかけて

宇品港を広くするために埋め立てられたところ。





この道は、「御幸通り」と呼ばれとる。





御幸橋と同じく、明治天皇が広島に来られた時、

この道を通って宇品まで行かれたので、

この名前がつけられたそうじゃ。





…ということは、前回紹介した御幸橋から

千田廟公園横の御幸通りまでの堤防跡も、

明治天皇が通られたことになるんじゃの。







公園の奥、今はマンションが建っているところに、

野球で有名な広陵(こうりょう)高校が、1973年まであった。





ほいじゃけぇ、今は「県病院前」と名づけられとる電停も、

1935年に電車の軌道が今のところに移設されたころには

「広陵中学前」という名前じゃったそうな。







ここで堤防跡は、広島電鉄宇品線が通る

国道487号線と交差する。





ここの県病院入口交差点で、

高低差を確認してみることに。







宇品側(南側)から見ると、

奥(仁保島西新開)が低く、

中央部(堤防跡)で高くなって…、







手前(宇品新開)でまた低くなっているのが

分かってもらえますかの?







ここから西は、

広島県道86号(翠町仁保線。通称:黄金山通り)で、

右手にはわしが生まれた県病院が見える。





このあたりは大正のころ、

道の両側にたくさんの桜の木が植えられていたことから、

「桜土手」と呼ばれとったそうじゃ。





戦争が激しくなった1945年6月には、

桜土手引込線が引かれて電車の疎開が行われ、

原爆が投下された日も

ここに10両の車両がここに置かれていた。







薬局に貼ってあるポスター。





訪問日:2016年9月25日





【参考文献】

本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月

長船友則『広電が走る街今昔』JTBキャンブックス 2005年06月






今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で

タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」を

千田廟公園から県病院まで話をさせてもらいました。





次回は、県病院から

山城町公園までを紹介していく予定じゃ。





ほいじゃあ、またの。
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