御幸橋から千田廟公園まで
江戸堤
ブラタモリ 広島編
先日(9月24日)、
NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。
番組の中では、
案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さんによって、
タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が紹介された。
この干拓地は「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばれ、
江戸時代に比治山(ひじやま)の南側から、
海の中にあった仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを
広島藩の事業として行った干拓地のことなんじゃ。
前回は前振りだけで終わってしもうたが、
今回から3回にわたってこの堤防跡を紹介していきます。
第1回目は、御幸橋(みゆきばし)から
千田廟公園(せんだびょうこうえん)までじゃ。
↓『ブラタモリ』については、こちら↓
「ブラタモリ」NHK
↓広島市郷土資料館については、こちら↓
広島市郷土資料館
御幸橋は、広島に流れる6つの川のひとつで、
東から2番目を流れる京橋川(きょうばしがわ)に架かる橋。
1885年(明治18年)、明治天皇が広島を訪問した時に
この橋を渡ったことから
「御幸橋」という名前になったそうじゃ。
「御幸(みゆき)」、「行幸(ぎょうこう)」いうのは、
天皇が外出すること。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/46/8dbc94e04af9f8e801b0d3ef6b6535d2.jpg)
1945年(昭和20年)8月6日、
中國新聞社のカメラマン、故・松重美人(まつしげ よしと)氏が
ここ御幸橋で写真を撮ったので
橋の西詰め南側にモニュメントが設置してある。
この写真は
広島に原爆が投下された当日、
市中心部で撮影された写真のうちの1枚なんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/d8/58e51c25a29c4e86fd669189b82cb103.jpg)
橋の北東側には、
バレーボールのVプレミアリーグ・JTサンダーズの合宿所と、
広島市出身で「世界一のセッター」と呼ばれた
故・猫田勝敏(ねこだ かつとし)氏を記念した
猫田記念体育館がある。
↓JTサンダーズについては、こちら↓
JTサンダーズ「JT ウェブサイト」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d3/08837006e7238f07be42609afa852f7a.jpg)
橋の南側から御幸橋東詰交差点を渡って右へ曲がり、
自動車が入っている道を進むと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b7/abfdb4981947b32c68199583faae42c6.jpg)
…いきなり、段差が!
左側が堤防跡で、
右側は明治時代、宇品港を築くために干拓された
「宇品(うじな)新開」。
「仁保島西新開」は後に
「皆実(みなみ)新開」呼ばれるようになった。
そのため、地名は
道の左側が皆実町6丁目で、
右側は宇品御幸1丁目になっとります。
余談じゃが、わしゃ小学2年生まで、
この皆実町6丁目に住んどったんじゃの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/39/15f3048aa83008dcc582eb2921be2111.jpg)
さらに歩いて行くと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/cd/36a9882263e89efb516993a08f1d4672.jpg)
至る所に段差が残っとる。
人々はここで生活するために坂や階段を作り、
日常の生活を送っとられる。
こうなってくると、
「この段差はね、江戸時代にね…」
といちいち説明するもんじゃのうて、
日常にある生活の一部なんじゃろうの。
さて、タモリさんたち一行が歩いた道をはどこじゃろか?
と探してみると…、
…あった!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/18/66dc8dd75c0b8cabc452682a3bd2017e.jpg)
平和塔があって、
その昔、わしの遊び場じゃった皆実町緑地の
西側にあるこの路地を入ると…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/50/3152684174ef1f830177928445032d11.jpg)
テレビで見たような建物が右側に見える。
左側の建物の丸い窓が分かりやすいかもしれん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/fb/c2ba76491d50c45149835c8d81396b89.jpg)
クランクを曲がると、
突き当たりに急な坂が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/88/e77cd3163fa26d1d88b68eebed68ebf5.jpg)
横から見ると、確かに急な坂になっとる。
この坂を上ったところが堤防跡じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/0b/4bf13da6418c624b45c11f53ad9b59f3.jpg)
この坂を上ったところで、
タモリさんは道路の反対側を見下した。
タモリ
「こっち低いですね」
本田さん(案内人)
「坂道じゃなくて ストンと落ちているような」
…という会話があったんじゃが、
この場所を下から見上げてみた。
このあたりの段差は3~4メートルくらいあって
とっても分かりやすい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fd/37a60fe77fd8824e7610ab77bcf95773.jpg)
堤防跡を歩いていくと、千田廟公園が見える。
木が生い茂っとるところがそうじゃ。
千田廟公園いうのは、
明治時代、宇品港を築くために尽力された、
広島県知事・千田貞暁(せんだ さだあき)を記念して建てられた公園。
この公園も、その昔、
わしの遊び場のひとつじゃった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/77/64dad98d58a4d703fa01ed9370157884.jpg)
この交差点を、北側から見たところ。
この微妙な段差、
左側(堤防跡)が高う(=高く)て、右側が低いという高低差を
写真から理解してもらえるじゃろか?
訪問日:2016年9月25日
【参考文献】
(本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」(広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月)
今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で
タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」を
御幸橋から千田廟公園まで話をさせてもらいました。
次回は、千田廟公園から
広島県病院までを紹介していく予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。
江戸堤
ブラタモリ 広島編
先日(9月24日)、
NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。
番組の中では、
案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さんによって、
タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が紹介された。
この干拓地は「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばれ、
江戸時代に比治山(ひじやま)の南側から、
海の中にあった仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを
広島藩の事業として行った干拓地のことなんじゃ。
前回は前振りだけで終わってしもうたが、
今回から3回にわたってこの堤防跡を紹介していきます。
第1回目は、御幸橋(みゆきばし)から
千田廟公園(せんだびょうこうえん)までじゃ。
↓『ブラタモリ』については、こちら↓
「ブラタモリ」NHK
↓広島市郷土資料館については、こちら↓
広島市郷土資料館
御幸橋は、広島に流れる6つの川のひとつで、
東から2番目を流れる京橋川(きょうばしがわ)に架かる橋。
1885年(明治18年)、明治天皇が広島を訪問した時に
この橋を渡ったことから
「御幸橋」という名前になったそうじゃ。
「御幸(みゆき)」、「行幸(ぎょうこう)」いうのは、
天皇が外出すること。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/46/8dbc94e04af9f8e801b0d3ef6b6535d2.jpg)
1945年(昭和20年)8月6日、
中國新聞社のカメラマン、故・松重美人(まつしげ よしと)氏が
ここ御幸橋で写真を撮ったので
橋の西詰め南側にモニュメントが設置してある。
この写真は
広島に原爆が投下された当日、
市中心部で撮影された写真のうちの1枚なんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/d8/58e51c25a29c4e86fd669189b82cb103.jpg)
橋の北東側には、
バレーボールのVプレミアリーグ・JTサンダーズの合宿所と、
広島市出身で「世界一のセッター」と呼ばれた
故・猫田勝敏(ねこだ かつとし)氏を記念した
猫田記念体育館がある。
↓JTサンダーズについては、こちら↓
JTサンダーズ「JT ウェブサイト」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d3/08837006e7238f07be42609afa852f7a.jpg)
橋の南側から御幸橋東詰交差点を渡って右へ曲がり、
自動車が入っている道を進むと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b7/abfdb4981947b32c68199583faae42c6.jpg)
…いきなり、段差が!
左側が堤防跡で、
右側は明治時代、宇品港を築くために干拓された
「宇品(うじな)新開」。
「仁保島西新開」は後に
「皆実(みなみ)新開」呼ばれるようになった。
そのため、地名は
道の左側が皆実町6丁目で、
右側は宇品御幸1丁目になっとります。
余談じゃが、わしゃ小学2年生まで、
この皆実町6丁目に住んどったんじゃの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/39/15f3048aa83008dcc582eb2921be2111.jpg)
さらに歩いて行くと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/cd/36a9882263e89efb516993a08f1d4672.jpg)
至る所に段差が残っとる。
人々はここで生活するために坂や階段を作り、
日常の生活を送っとられる。
こうなってくると、
「この段差はね、江戸時代にね…」
といちいち説明するもんじゃのうて、
日常にある生活の一部なんじゃろうの。
さて、タモリさんたち一行が歩いた道をはどこじゃろか?
と探してみると…、
…あった!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/18/66dc8dd75c0b8cabc452682a3bd2017e.jpg)
平和塔があって、
その昔、わしの遊び場じゃった皆実町緑地の
西側にあるこの路地を入ると…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/50/3152684174ef1f830177928445032d11.jpg)
テレビで見たような建物が右側に見える。
左側の建物の丸い窓が分かりやすいかもしれん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/fb/c2ba76491d50c45149835c8d81396b89.jpg)
クランクを曲がると、
突き当たりに急な坂が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/88/e77cd3163fa26d1d88b68eebed68ebf5.jpg)
横から見ると、確かに急な坂になっとる。
この坂を上ったところが堤防跡じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/0b/4bf13da6418c624b45c11f53ad9b59f3.jpg)
この坂を上ったところで、
タモリさんは道路の反対側を見下した。
タモリ
「こっち低いですね」
本田さん(案内人)
「坂道じゃなくて ストンと落ちているような」
…という会話があったんじゃが、
この場所を下から見上げてみた。
このあたりの段差は3~4メートルくらいあって
とっても分かりやすい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fd/37a60fe77fd8824e7610ab77bcf95773.jpg)
堤防跡を歩いていくと、千田廟公園が見える。
木が生い茂っとるところがそうじゃ。
千田廟公園いうのは、
明治時代、宇品港を築くために尽力された、
広島県知事・千田貞暁(せんだ さだあき)を記念して建てられた公園。
この公園も、その昔、
わしの遊び場のひとつじゃった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/77/64dad98d58a4d703fa01ed9370157884.jpg)
この交差点を、北側から見たところ。
この微妙な段差、
左側(堤防跡)が高う(=高く)て、右側が低いという高低差を
写真から理解してもらえるじゃろか?
訪問日:2016年9月25日
【参考文献】
(本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」(広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月)
今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で
タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」を
御幸橋から千田廟公園まで話をさせてもらいました。
次回は、千田廟公園から
広島県病院までを紹介していく予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。
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