県病院から山城町公園まで
江戸堤
ブラタモリ 広島編
↓前回記事は、こちら↓
仁保島西新開の堤防跡を歩く(その3)
先週の土曜日(9月24日)、
NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。
番組の中で、
タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が、
案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さん
によって紹介されました。
この干拓地は江戸時代、広島藩が比治山(ひじやま)の南側から、
当時はまだ海の中にあった
仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを干拓したもので、
「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばるところ。
今の広島の街は、
広島デルタと呼ばれる三角州の上に作られた街で、
毛利輝元(もうり てるもと)が築いた広島城も、
この三角州の上に築かれとるんじゃの。
そして江戸時代以降、遠浅の瀬戸の海を、
南へ南へと埋め立てていって広島の街が作られたんじゃ。
仁保島西新開も、その干拓地のうちのひとつ。
この仁保島西新開の堤防跡を4回にわたって紹介しとりますが、
今回は最終回、
県病院から山城町公園までじゃ。
↓『ブラタモリ』については、こちら↓
「ブラタモリ」NHK
↓広島市郷土資料館については、こちら↓
広島市郷土資料館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/a6/da624dd2415b5460696c5fe5375bda67.jpg)
広島県道86号(翠町仁保線。通称:黄金山通り)に入ると、
右手にはわしが生まれた県病院が見える。
このあたりは段差が小そう(=小さく)て、
分かりづらいんじゃ。
段差を求めて東へ東へと進むうちに…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/59/b08bbdda3244e017bb04382082dd936b.jpg)
テレビにも出てきた、
翠町(みどりまち)中学校東側の道路に着いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/45/94120dae1e800c4ece28b58a21d29e03.jpg)
ここの高低差は、分かりやすいのう。
向かって左側が堤防跡で、
右側は仁保島西新開じゃけぇ
堤防跡の方が高う(=高く)なっとります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/66/fdd89d234bb154479348ec9a3d71d9ba.jpg)
翠町中学校の前にある
宇品3丁目1番交差点から東側を見ると、
正面に標高221.7メートルの
黄金山(むかしの仁保島)が見える。
最初にも紹介したが、
今、歩いとる仁保島西新開は、
北にある比治山(ひじやま)から
この黄金山のふもとまでを埋め立てた干拓地じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/89/cf2e57fca8b1f0002f1a8f872951a3d8.jpg)
広島南警察署前交差点を渡って北へ進むと、
鉄道のレールと、踏切の警報機や遮断機、
木製の短いホームなど
宇品線のモニュメントが残されとる。
鉄道ファンのタモリさんが
ここを黙って通り過ぎるはずはないけぇ、
ここでのやりとりは放送でカットされたか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/96/6c54020be330f3dcead4b3c74862c446.jpg)
この坂を上って行くと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/68/9447bbb25055b512a10ffcc9f2069cb9.jpg)
道はここで2手に分かれる。
堤防跡は左側にもう少し先まで続いとるんじゃが、
番組ではこの角を右へ曲がったので、
この角を右へ進むことにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9c/f02c3402a49926d811580cc71843ce39.jpg)
山城町(やましろちょう)公園。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/6fb36227fbea5aa1a2dee09fce364967.jpg)
道路(堤防跡)と公園の高低差が分かる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1c/d84aceb62dcc96e025370426ec868ef7.jpg)
番組の中でも紹介されとったが、
この公園があったところには、
1980(昭和55)年に埋め立てられてしまうまで、
入り江があった。
ここにはもともと漁師町があったことから、
仁保島西新開を作る時も、
わざわざ堤防を曲げて入り江を作り、
港を残すようにしたんじゃそうな。
公園の北側には、
港から海へ昇り降りするための足場(階段?)が
今も残っとる。
『ブラタモリ』を見て、ここの写真を撮りに来られた方が
何人かおられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/ad/cb7d15325272508f09f401e7c363f4a4.jpg)
公園の北側には、
英橋(はなぶさはし)の記念碑が建ててある。
英橋(はなぶさはし。通称英造橋(えいぞうばし))は、
広島市南区旭三丁目地先から
山城町地先に至る間に架橋していた。
英橋は、明治三十年旧仁保島村大河(現山城町)に
在住していた英修作氏が、
入江を隔てた対岸への通行に難渋していた村人のために
私財を投じて入江に護岸を築き、
木橋を建設し、村に寄贈したのが始まりである。
その後、広島市において
昭和二十六年にコンクリート橋に改修したが、
昭和五十五年十二月に下水道整備事業による
入江の埋立により八十余年に及ぶ歴史を閉じ廃橋となった。
ここに故英修作氏の偉業と
同橋が長年にわたり住民の交通に寄与したことを記念して、
この碑を建立する。
昭和五十六年五月
広島市
訪問日:2016年9月25日
【参考文献】
本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月
今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で
タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」の堤防跡を
県病院から山城町公園まで話をさせてもらいました。
…というわけで、
「仁保島西新開の堤防跡を歩く」はこれで終わりです。
おつきあい、ありがとうございました。
ほいじゃあ、またの。
江戸堤
ブラタモリ 広島編
↓前回記事は、こちら↓
仁保島西新開の堤防跡を歩く(その3)
先週の土曜日(9月24日)、
NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。
番組の中で、
タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が、
案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さん
によって紹介されました。
この干拓地は江戸時代、広島藩が比治山(ひじやま)の南側から、
当時はまだ海の中にあった
仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを干拓したもので、
「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばるところ。
今の広島の街は、
広島デルタと呼ばれる三角州の上に作られた街で、
毛利輝元(もうり てるもと)が築いた広島城も、
この三角州の上に築かれとるんじゃの。
そして江戸時代以降、遠浅の瀬戸の海を、
南へ南へと埋め立てていって広島の街が作られたんじゃ。
仁保島西新開も、その干拓地のうちのひとつ。
この仁保島西新開の堤防跡を4回にわたって紹介しとりますが、
今回は最終回、
県病院から山城町公園までじゃ。
↓『ブラタモリ』については、こちら↓
「ブラタモリ」NHK
↓広島市郷土資料館については、こちら↓
広島市郷土資料館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/a6/da624dd2415b5460696c5fe5375bda67.jpg)
広島県道86号(翠町仁保線。通称:黄金山通り)に入ると、
右手にはわしが生まれた県病院が見える。
このあたりは段差が小そう(=小さく)て、
分かりづらいんじゃ。
段差を求めて東へ東へと進むうちに…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/59/b08bbdda3244e017bb04382082dd936b.jpg)
テレビにも出てきた、
翠町(みどりまち)中学校東側の道路に着いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/45/94120dae1e800c4ece28b58a21d29e03.jpg)
ここの高低差は、分かりやすいのう。
向かって左側が堤防跡で、
右側は仁保島西新開じゃけぇ
堤防跡の方が高う(=高く)なっとります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/66/fdd89d234bb154479348ec9a3d71d9ba.jpg)
翠町中学校の前にある
宇品3丁目1番交差点から東側を見ると、
正面に標高221.7メートルの
黄金山(むかしの仁保島)が見える。
最初にも紹介したが、
今、歩いとる仁保島西新開は、
北にある比治山(ひじやま)から
この黄金山のふもとまでを埋め立てた干拓地じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/89/cf2e57fca8b1f0002f1a8f872951a3d8.jpg)
広島南警察署前交差点を渡って北へ進むと、
鉄道のレールと、踏切の警報機や遮断機、
木製の短いホームなど
宇品線のモニュメントが残されとる。
鉄道ファンのタモリさんが
ここを黙って通り過ぎるはずはないけぇ、
ここでのやりとりは放送でカットされたか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/96/6c54020be330f3dcead4b3c74862c446.jpg)
この坂を上って行くと…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/68/9447bbb25055b512a10ffcc9f2069cb9.jpg)
道はここで2手に分かれる。
堤防跡は左側にもう少し先まで続いとるんじゃが、
番組ではこの角を右へ曲がったので、
この角を右へ進むことにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/9c/f02c3402a49926d811580cc71843ce39.jpg)
山城町(やましろちょう)公園。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/6fb36227fbea5aa1a2dee09fce364967.jpg)
道路(堤防跡)と公園の高低差が分かる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1c/d84aceb62dcc96e025370426ec868ef7.jpg)
番組の中でも紹介されとったが、
この公園があったところには、
1980(昭和55)年に埋め立てられてしまうまで、
入り江があった。
ここにはもともと漁師町があったことから、
仁保島西新開を作る時も、
わざわざ堤防を曲げて入り江を作り、
港を残すようにしたんじゃそうな。
公園の北側には、
港から海へ昇り降りするための足場(階段?)が
今も残っとる。
『ブラタモリ』を見て、ここの写真を撮りに来られた方が
何人かおられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/ad/cb7d15325272508f09f401e7c363f4a4.jpg)
公園の北側には、
英橋(はなぶさはし)の記念碑が建ててある。
英橋(はなぶさはし。通称英造橋(えいぞうばし))は、
広島市南区旭三丁目地先から
山城町地先に至る間に架橋していた。
英橋は、明治三十年旧仁保島村大河(現山城町)に
在住していた英修作氏が、
入江を隔てた対岸への通行に難渋していた村人のために
私財を投じて入江に護岸を築き、
木橋を建設し、村に寄贈したのが始まりである。
その後、広島市において
昭和二十六年にコンクリート橋に改修したが、
昭和五十五年十二月に下水道整備事業による
入江の埋立により八十余年に及ぶ歴史を閉じ廃橋となった。
ここに故英修作氏の偉業と
同橋が長年にわたり住民の交通に寄与したことを記念して、
この碑を建立する。
昭和五十六年五月
広島市
訪問日:2016年9月25日
【参考文献】
本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月
今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で
タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」の堤防跡を
県病院から山城町公園まで話をさせてもらいました。
…というわけで、
「仁保島西新開の堤防跡を歩く」はこれで終わりです。
おつきあい、ありがとうございました。
ほいじゃあ、またの。