わしがこまい(=小さい)ころは、家に風呂がなかったんで、銭湯に通いよったんじゃ。
わしの家にのう(=無く)て銭湯にあったものといえば、体に刺青の入ったオッサン、ラムネやジュースのたくさん入った大きな冷蔵庫、そして、映画のポスター。
【問題】
映画全盛の昭和30年代、映画看板師だった佐藤定信の個展も開かれる、10月14日(金)から31日(日)まで、市の中心部にある商店街を会場にした「わたくし美術館」が開催されるのは、次のうちどこでしょうか?
1.江田島市
2.呉市
3.世羅町
4.三次市
【正解】
2.呉市
【解説】
映画全盛の昭和30年代に手描きの映画看板師として腕をふるった呉市の佐藤定信さん(71)が、14日から31日まで同市中心部の商店街を会場にした「わたくし美術館」(同実行委員会主催)で、初の展示会を開く。
昔の看板は使い捨てで残っていないが、今年初めから制作を再開。
新たに仕上げた約50点を、呉映画サークルの協力で、空き店舗をギャラリーに使って公開する。
(「懐かし映画看板 復活」朝日新聞 2010年10月13日)
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000001010130002
↓わたくし美術館については、こちら↓
呉・わたくし美術館2010
http://www.mitekure.com/watakushi/2010/
広島市内で、最後まで手書き看板を掲げられとったのは、すでに閉館となった朝日会館(広島市中区)じゃったかいのう。
今日は、「懐かしの手描き映画看板展」「映画看板の街並」「赤塚不二夫」について調べてみようかの。
1.懐かしの手描き映画看板展
佐藤定信による「懐かしの手描き映画看板展」は、呉市中通4丁目の西田ビルで開かれるそうじゃ。
ところで、佐藤定信ってどんな方じゃろうか?
音戸町出身。
子どものころ呉市の繁華街でみた映画看板のとりこになった。
中学卒業と同時に広島市内の映画看板職人に弟子入り。
1960(昭和35)年から名古屋を拠点に映画館の看板を制作した。
ピーク時は8館を受け持ち、劇場正面に掲げるメーン作品のほか、次週や近日上映の看板を担当。
テレビに押されて映画人気にかげりが出た65年ごろまで、描き上げた作品は千点以上にのぼった。
その後、呉市に戻り、看板業として独立。
車体の文字書きや店の看板などを手がけた。
仕事も一段落し、「手描き看板の歴史を残したい」と今年1月から映画俳優らの看板制作を再開。
写真資料をもとに、即座に人物の特徴をとらえる。
「遠くから見て迫力のある色づかい」が映画看板の出来を左右するという。
山本富士子、片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)、鶴田浩二といった往年のスターたちの作品をそろえ、即売もする。
「人気俳優が次々に生まれた昭和30年代、呉市中央の商店街には映画館が立ち並んでにぎやかだった。その時代にスポットをあて、なつかしんでもらいたい」と佐藤さん。
17日午前11時から、呉映画サークルが11月の例会で上映予定の「孤高のメス」の看板を実際に制作する。
24日にも実演会を予定している。
(同上)
17日(日)午前11時から、映画「孤高のメス」の看板をその場で描くパフォーマンスもあるそうじゃ。
どんな手順で、どのくらいの時間で描き上げていかれるんじゃろうか?
是非、観てみたいもんじゃのう。
↓懐かしの手描き映画看板展については、こちら↓
「わたくし美術館はじまる」呉映画サークル
http://kureeisa.blog85.fc2.com/
広島市にある映像文化ライブラリーでは、主に昔の映画を上映されとるんじゃ。
たとえば今月は、山本薩夫(やまもと さつお)監督の「白い巨塔」「華麗なる一族」「戦争と人間」。
フランス映画では「天井桟敷(さじき)の人々」「ヒロシマモナムール (二十四時間の情事)」「地下室のメロディー」などなど。
月1点でええけぇ、上映作品の看板を描いてもらえると、うれしいんじゃがのう。
↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓
広島市映像文化ライブラリー
http://www.cf.city.hiroshima.jp/eizou/
2.映画看板の街並
映画の看板といえば、東京の青梅(おうめ)市に「映画看板の街並」というのがあるそうじゃ。
青梅市在住の看板絵師、久保板観(くぼ ばんかん)が描いた映画看板を掲げ、最近では「映画看板の町」として全国的にも知られとるんじゃそうな。
↓青梅の映画看板については、こちら↓
青梅レトロ映画看板
http://www3.kitanet.ne.jp/~n-ogawa.mwa/oume_kanban.html
チャップリンの「モダンタイムズ」を始め、「荒野の決闘」「ある愛の詩」。
日本の作品では、「丹下左膳」「二十四の瞳」に「男はつらいよ」などなど。
「駈けろ銀翼! うなれよ鉄腕! 豪快! 大空を駈けるマイトガイ・アキラ」
「明日の命は抜き打ち次第! にぎる拳銃に情けは無用! 不屈の男赤木圭一郎天下御免の無頼帖!」
看板絵も味があってええが、この予告文(正式には何というんじゃろうか?)を読むだけで、「血湧き肉躍る」感じがしてきますよのう。
「時代劇は東映」なんて言葉もありました。
そういや、「カラー作品」ではなく、「総天然色」という言葉が使われとったよのう。
テレビでも、まだ白黒の作品があった時代、「総天然色」という言葉は、魅力的じゃった。
話を元に戻して…。
久保板観が18歳のころ、青梅市内にある3つの映画館すべての看板制作を受け持っとらっれたそうじゃ。
その後、映画産業の景気が悪くなったので、普通の看板屋として仕事をされとった。
1993(平成5)年、「青梅宿アートフェスティバル」で久しぶりに映画看板を描いたのを機に、彼の映画看板が再び青梅の商店街を飾るようになったということじゃ。
青梅では、11月20日(土)・21日(日)の2日間、「第20回 青梅宿アートフェスティバル2010」というのがあるそうじゃ。
今年は、「これでいいのだ!! 青梅宿「赤塚不二夫ワールドin青梅シェー!」」というテーマなんじゃと。
ほいで、「青梅宿シェーコンテスト」というのも行なわれるそうじゃ。
う~ん、何をもって優劣をつけるんじゃろうか?
↓青梅宿アートフェスティバルについては、こちら↓
昭和レトロの青梅宿 NPOぶらり青梅宿 おうめまるごと博物館
http://omjk.jp/
3.赤塚不二夫
赤塚不二夫といえば、ご存じのとおり、「天才バカボン」「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」などで有名なマンガ家。
バカボンパパの「これでいいのだ」、イヤミの「シェーッ」などの流行語も生み出しとられます。
赤塚不二夫が、その才能を見出し、芸能界へデビューさせたのが、タモリ。
2008(平成20)年8月、赤塚不二夫の告別式で、何も書かれていない紙を手にしたタモリは、「私もあなたの数多くの作品の一つです」と弔辞を読み上げられましたのう。
「なぜ、青梅に赤塚不二夫なの?」と思って調べてみたら、青梅市には赤塚不二夫会館というのが建てられとるそうじゃ。
ここには、赤塚が漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られとるんじゃそうな。
赤塚不二夫は、家庭の事情で高校へ進学することができんかった。
ほいで、絵に関係した仕事に就きたいということで、映画の看板を制作する看板屋に就職したこともあるそうじゃ。
青春時代、赤塚が胸躍らせながら観た「哀愁」「第三の男」「駅馬車」など、映画黄金時期を彩る傑作が立ち並ぶ楽しい街並み。
テレビに映ったそれらの映画看板を観たのが、赤塚不二夫と住江町との出会いでした。
その昔、新潟の看板屋さんで働いていた時期に描いた懐かしい映画看板。
「実物を見てみたい!」赤塚がそう思ったのは想像に難しくありません。
「映画からさまざまなパワーを貰(もら)った」と常々言うほど、若い頃より映画が大好きな赤塚だけに、アイデア、キャラクターなどにも映画の影響を見てとることができます。
「どうして漫画を描いたの?」2001年頃、赤塚にそんな質問をしたことがあります。
「漫画はお金をかけずに、監督も、脚本も、俳優も、大道具もすべてやれるんだ」赤塚にとって漫画こそあの看板を飾る作品のように、自分の世界観を表現する最良の手段なのだと思います。
株式会社フジオ・プロダクション
代表取締役社長 赤塚りえ子
(「ごあいさつ」青梅赤塚不二夫会館)
↓青梅赤塚不二夫会館については、こちら↓
青梅 赤塚不二夫会館
http://akatsuka-hall.omjk.jp/
↓赤塚不二夫については、こちら↓
赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!
http://www.koredeiinoda.net/
赤塚不二夫といえば、来年、2011(平成23)年のゴールデンウィークに映画が上映される予定じゃ。
↓赤塚不二夫の映画については、こちら↓
映画『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』オフィシャルサイト
http://www.iinoda.jp/
今日は、「懐かしの手描き映画看板展」「映画看板の街並」「赤塚不二夫」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
わしの家にのう(=無く)て銭湯にあったものといえば、体に刺青の入ったオッサン、ラムネやジュースのたくさん入った大きな冷蔵庫、そして、映画のポスター。
【問題】
映画全盛の昭和30年代、映画看板師だった佐藤定信の個展も開かれる、10月14日(金)から31日(日)まで、市の中心部にある商店街を会場にした「わたくし美術館」が開催されるのは、次のうちどこでしょうか?
1.江田島市
2.呉市
3.世羅町
4.三次市
【正解】
2.呉市
【解説】
映画全盛の昭和30年代に手描きの映画看板師として腕をふるった呉市の佐藤定信さん(71)が、14日から31日まで同市中心部の商店街を会場にした「わたくし美術館」(同実行委員会主催)で、初の展示会を開く。
昔の看板は使い捨てで残っていないが、今年初めから制作を再開。
新たに仕上げた約50点を、呉映画サークルの協力で、空き店舗をギャラリーに使って公開する。
(「懐かし映画看板 復活」朝日新聞 2010年10月13日)
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000001010130002
↓わたくし美術館については、こちら↓
呉・わたくし美術館2010
http://www.mitekure.com/watakushi/2010/
広島市内で、最後まで手書き看板を掲げられとったのは、すでに閉館となった朝日会館(広島市中区)じゃったかいのう。
今日は、「懐かしの手描き映画看板展」「映画看板の街並」「赤塚不二夫」について調べてみようかの。
1.懐かしの手描き映画看板展
佐藤定信による「懐かしの手描き映画看板展」は、呉市中通4丁目の西田ビルで開かれるそうじゃ。
ところで、佐藤定信ってどんな方じゃろうか?
音戸町出身。
子どものころ呉市の繁華街でみた映画看板のとりこになった。
中学卒業と同時に広島市内の映画看板職人に弟子入り。
1960(昭和35)年から名古屋を拠点に映画館の看板を制作した。
ピーク時は8館を受け持ち、劇場正面に掲げるメーン作品のほか、次週や近日上映の看板を担当。
テレビに押されて映画人気にかげりが出た65年ごろまで、描き上げた作品は千点以上にのぼった。
その後、呉市に戻り、看板業として独立。
車体の文字書きや店の看板などを手がけた。
仕事も一段落し、「手描き看板の歴史を残したい」と今年1月から映画俳優らの看板制作を再開。
写真資料をもとに、即座に人物の特徴をとらえる。
「遠くから見て迫力のある色づかい」が映画看板の出来を左右するという。
山本富士子、片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)、鶴田浩二といった往年のスターたちの作品をそろえ、即売もする。
「人気俳優が次々に生まれた昭和30年代、呉市中央の商店街には映画館が立ち並んでにぎやかだった。その時代にスポットをあて、なつかしんでもらいたい」と佐藤さん。
17日午前11時から、呉映画サークルが11月の例会で上映予定の「孤高のメス」の看板を実際に制作する。
24日にも実演会を予定している。
(同上)
17日(日)午前11時から、映画「孤高のメス」の看板をその場で描くパフォーマンスもあるそうじゃ。
どんな手順で、どのくらいの時間で描き上げていかれるんじゃろうか?
是非、観てみたいもんじゃのう。
↓懐かしの手描き映画看板展については、こちら↓
「わたくし美術館はじまる」呉映画サークル
http://kureeisa.blog85.fc2.com/
広島市にある映像文化ライブラリーでは、主に昔の映画を上映されとるんじゃ。
たとえば今月は、山本薩夫(やまもと さつお)監督の「白い巨塔」「華麗なる一族」「戦争と人間」。
フランス映画では「天井桟敷(さじき)の人々」「ヒロシマモナムール (二十四時間の情事)」「地下室のメロディー」などなど。
月1点でええけぇ、上映作品の看板を描いてもらえると、うれしいんじゃがのう。
↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓
広島市映像文化ライブラリー
http://www.cf.city.hiroshima.jp/eizou/
2.映画看板の街並
映画の看板といえば、東京の青梅(おうめ)市に「映画看板の街並」というのがあるそうじゃ。
青梅市在住の看板絵師、久保板観(くぼ ばんかん)が描いた映画看板を掲げ、最近では「映画看板の町」として全国的にも知られとるんじゃそうな。
↓青梅の映画看板については、こちら↓
青梅レトロ映画看板
http://www3.kitanet.ne.jp/~n-ogawa.mwa/oume_kanban.html
チャップリンの「モダンタイムズ」を始め、「荒野の決闘」「ある愛の詩」。
日本の作品では、「丹下左膳」「二十四の瞳」に「男はつらいよ」などなど。
「駈けろ銀翼! うなれよ鉄腕! 豪快! 大空を駈けるマイトガイ・アキラ」
「明日の命は抜き打ち次第! にぎる拳銃に情けは無用! 不屈の男赤木圭一郎天下御免の無頼帖!」
看板絵も味があってええが、この予告文(正式には何というんじゃろうか?)を読むだけで、「血湧き肉躍る」感じがしてきますよのう。
「時代劇は東映」なんて言葉もありました。
そういや、「カラー作品」ではなく、「総天然色」という言葉が使われとったよのう。
テレビでも、まだ白黒の作品があった時代、「総天然色」という言葉は、魅力的じゃった。
話を元に戻して…。
久保板観が18歳のころ、青梅市内にある3つの映画館すべての看板制作を受け持っとらっれたそうじゃ。
その後、映画産業の景気が悪くなったので、普通の看板屋として仕事をされとった。
1993(平成5)年、「青梅宿アートフェスティバル」で久しぶりに映画看板を描いたのを機に、彼の映画看板が再び青梅の商店街を飾るようになったということじゃ。
青梅では、11月20日(土)・21日(日)の2日間、「第20回 青梅宿アートフェスティバル2010」というのがあるそうじゃ。
今年は、「これでいいのだ!! 青梅宿「赤塚不二夫ワールドin青梅シェー!」」というテーマなんじゃと。
ほいで、「青梅宿シェーコンテスト」というのも行なわれるそうじゃ。
う~ん、何をもって優劣をつけるんじゃろうか?
↓青梅宿アートフェスティバルについては、こちら↓
昭和レトロの青梅宿 NPOぶらり青梅宿 おうめまるごと博物館
http://omjk.jp/
3.赤塚不二夫
赤塚不二夫といえば、ご存じのとおり、「天才バカボン」「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」などで有名なマンガ家。
バカボンパパの「これでいいのだ」、イヤミの「シェーッ」などの流行語も生み出しとられます。
赤塚不二夫が、その才能を見出し、芸能界へデビューさせたのが、タモリ。
2008(平成20)年8月、赤塚不二夫の告別式で、何も書かれていない紙を手にしたタモリは、「私もあなたの数多くの作品の一つです」と弔辞を読み上げられましたのう。
「なぜ、青梅に赤塚不二夫なの?」と思って調べてみたら、青梅市には赤塚不二夫会館というのが建てられとるそうじゃ。
ここには、赤塚が漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られとるんじゃそうな。
赤塚不二夫は、家庭の事情で高校へ進学することができんかった。
ほいで、絵に関係した仕事に就きたいということで、映画の看板を制作する看板屋に就職したこともあるそうじゃ。
青春時代、赤塚が胸躍らせながら観た「哀愁」「第三の男」「駅馬車」など、映画黄金時期を彩る傑作が立ち並ぶ楽しい街並み。
テレビに映ったそれらの映画看板を観たのが、赤塚不二夫と住江町との出会いでした。
その昔、新潟の看板屋さんで働いていた時期に描いた懐かしい映画看板。
「実物を見てみたい!」赤塚がそう思ったのは想像に難しくありません。
「映画からさまざまなパワーを貰(もら)った」と常々言うほど、若い頃より映画が大好きな赤塚だけに、アイデア、キャラクターなどにも映画の影響を見てとることができます。
「どうして漫画を描いたの?」2001年頃、赤塚にそんな質問をしたことがあります。
「漫画はお金をかけずに、監督も、脚本も、俳優も、大道具もすべてやれるんだ」赤塚にとって漫画こそあの看板を飾る作品のように、自分の世界観を表現する最良の手段なのだと思います。
株式会社フジオ・プロダクション
代表取締役社長 赤塚りえ子
(「ごあいさつ」青梅赤塚不二夫会館)
↓青梅赤塚不二夫会館については、こちら↓
青梅 赤塚不二夫会館
http://akatsuka-hall.omjk.jp/
↓赤塚不二夫については、こちら↓
赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!
http://www.koredeiinoda.net/
赤塚不二夫といえば、来年、2011(平成23)年のゴールデンウィークに映画が上映される予定じゃ。
↓赤塚不二夫の映画については、こちら↓
映画『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』オフィシャルサイト
http://www.iinoda.jp/
今日は、「懐かしの手描き映画看板展」「映画看板の街並」「赤塚不二夫」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。