通でがんす

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広島城で火縄銃の演武をした、岩国藩の保存会の名称は?

2010年10月11日 | 広島の話題

【問題】
10月10日(日)、広島城二の丸で火縄銃の演武が行われました。
この演武を行った、岩国藩の保存会の名称は、次のうちどれでしょうか?

1.岩国藩火術鉄砲隊保存会
2.岩国藩古式砲術保存会
3.岩国藩鉄砲隊保存会
4.岩国藩火縄銃鉄砲隊保存会









【正解】
3.岩国藩鉄砲隊保存会



【解説】
古式砲術を伝える岩国藩鉄砲隊保存会(岩国市)が10日、広島市中区の広島城二の丸で火縄銃の演武をした。
市民や観光客約300人が見守った。

武具を着けた17人がほら貝と陣太鼓の音で登場。
二の丸西側の塀にある、鉄砲を撃つ小窓「鉄砲狭間(ざま)」から堀に向けて銃を構えた。
隊長の「放て」の号令で一斉に空砲を放ち、ごう音を響かせた。
2列で順番に撃つ「つるべ放し」など四つの撃ち方を披露した。

広島城の鉄砲狭間を広く知ってもらおうと広島市の市民グループが企画した。
城を管理する市文化財団は今後、演武の映像を天守閣で公開する予定。

(「広島城でごう音 火縄銃演武」中国新聞 2010年10月11日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010110001.html







今日は、「岩国藩鉄砲隊」「岩国藩」「鉄砲挟間」について調べてみようかの。



1.岩国藩鉄砲隊



昭和62(1987)年4月、石田流砲術の伝承と歴史都市岩国のイメージアップを目指し、戦国時代の様式を再現した鉄砲隊を復興し、昨年創設20年目を迎えた。
隊員は現在38名。
揃いのお貸し具足(ぐそく)を着用し、胴の前面には吉川家の家紋・蛇の目九曜(じゃのめくよう)を描き、火縄銃は江戸時代に製作された古式銃を整備して使用している。
口径13mm程度の通称細筒(小筒)といわれるもので、一丁の迫力は大筒ほどではないが、20名もの一斉射撃の轟音(ごうおん)はあたりを圧し、観客のどよめきを誘う。
隊長の指揮により一糸乱れず整然と行動することで定評があり、隊員もそれを誇りとしている。
そのため、毎月(2、8月を除く)第2日曜日に訓練は欠かさない。

岩国藩鉄砲隊の演武は、元日には一年の平穏を祈願し錦帯橋下河原で初撃ちを行う他、4月29日は時代祭りである『錦帯橋まつり』、更には要請を受けて、萩時代まつりや堺まつりなどの歴史的イベントで演武している。

(「岩国藩鉄砲隊設立とその演武」岩国藩鉄砲隊ホームページ)



テレビや映画で、火縄銃を撃つシーンは見たことはあるんじゃが、実際に撃つシーンは初めて見せてもろうた。
上の文章中に「轟音」という言葉を使われとってじゃが、ほんま、轟(とどろ)きわたるような音じゃった。

「戦いの火蓋(ひぶた)を切る」という言い方をしますよのう。
「火蓋を切る」というのは、火縄銃を撃つ動作の中のひとつなんじゃと。
火蓋を切った後に、「放て」という号令で引き金を引くんじゃ。
あと、火縄銃は「撃つ」ではなく、「放つ」というそうじゃ。

いや~、勉強になりますのう。



↓岩国藩鉄砲隊については、こちら↓

岩国藩鉄砲隊ホームページ
http://www14.ocn.ne.jp/~iwteppo/



↓火縄銃の撃ち方については、こちら↓

「和流砲術 火縄銃」
http://www42.tok2.com/home/fleet7/Museum/Muse302.html



10月30日(土)は広島フードフェスティバル(広島市中区)で、翌31日(日)は吉川戦国まつり(北広島町)で、演武を行われるそうじゃ。
興味を持たれた方、ご覧になられてはいかがですかの。



↓広島フードフェスティバルについては、こちら↓

ひろしまフードフェスティバル2010
http://www.rcc.net/event/foodfestival/2010/



↓吉川戦国まつりについては、こちら↓

「吉川戦国まつり、北広島町の文化と 戦国時代に触れるお祭り」広島ニュース 食べタインジャー
http://tabetainjya.com/archives/yamagata2/post_798/



2.岩国藩

岩国といえば、錦帯橋に岩国城。
岩国城があれば、岩国藩もあったはずじゃが、岩国藩って聞いたことがないんよのう…。



岩国藩鉄砲隊と称しているが、実は正式に藩と認められたのは明治元(1868)年のことである。
岩国吉川(きっかわ)家は実録6万石、諸侯に列せられる充分な禄高であったが、毛利本藩は関ヶ原役の敗戦は吉川広家(ひろいえ)の東軍への内応とし、二代目広正(ひろまさ)から正式には大名ではなく陪臣(ばいしん)とし、再度に渡る藩昇格の承認を無視しつづけたが、幕府の待遇は諸侯並みであった。
しかし、元治元(1864)年、長州藩は蛤御門(はまぐりごもん)の変を起こし敗北し、幕府より追討されるという藩存亡の危機に瀕したとき、十二代吉川経幹(つねまさ)は、征長軍の徳川慶勝(よしかつ)西郷吉之助(隆盛)と交渉し、征長戦は延期され、長州藩は危機を免れた(第一次長州征伐)。

毛利は吉川の功績を認め、倒幕への更なる強力な支援を得るため、長年の宿願である藩への昇格を認めた。
明治4(1871)年には廃藩置県(はいはんちけん)が実施されたことで3年余りの短命な藩であった。
しかし、例え僅(わず)かな期間であったとはいえ、藩の誇りを冠し伝統を継承している。

「岩国藩鉄砲隊あれこれ」岩国藩鉄砲隊ホームページ



↓岩国城については、こちら↓

「岩国城」岩国の観光.com
http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/shiro/index.php



3.鉄砲挟間(てっぽうざま)

「挟間」とは、文字どおり「物と物との間」のこと。
転じて、城壁に造った、弓や鉄砲を撃つための穴のことじゃ。
お城に行くと、壁に○や△や□の穴が開いとりますよのう。
あの穴こと。
弓を放つための穴は、縦長の長方形になっとるんじゃ。
鉄砲を撃つための穴を「鉄砲挟間」、弓を放つための穴を「弓挟間」というんじゃそうな。

学芸員の方の話によると、現在の広島城には118の挟間があるそうじゃ。

広島城は戦(いくさ)の舞台になったことがないので、実戦で使われたことはないじゃろうの。




左側の長方形が「弓挟間」、右側の正方形が「鉄砲挟間」


今回、広島城で演舞をした理由は、「なぜ、壁に穴が開いているか?」という質問があるからじゃそうな。
外国の方の中には、「あれはデザインか?」と言う方もおられるそうじゃ。
そこで、「この穴はこういう用途で造られているんですよ」ということを紹介されるために企画されたんじゃと。



↓広島城についての関連記事は、こちら↓

原爆による広島城の崩壊の状況について、開催されている企画展の名称は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100727

広島城天守閣に展示されている金箔瓦は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100530

広島城を築城したのは誰?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091027



今日は、「岩国藩鉄砲隊」「岩国藩」「鉄砲挟間」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

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