第3207号 29.10.11(水)
とらわれる心が迷い
禅宗では、これを還って鎗頭(そうとう)を把(つか)み倒(さかし)まに人を刺し来るといっています。鎗はほこのことをいいます。人の持っている刀を我が方にもぎ取って、逆に相手を切るということです。あなたのいわれる無刀ということがそれです。
向こうから打ってこようが、こちらから打っていこうが、どんな人がどう打ってくるかなど、どんなことにでも、ちょっとでも心がとらわれてしまうと、こちらの動きがお留守になって切られてしまうでしょう。
敵の心を意識的に知ろうとすれば、かえって敵に心を見すかされます。自分の心を一定以上にひきしめておくのは、初心者の頃、未だ修行を始めたばかりの時のことです。
自分の刀の動きを気にすれば、自分の刀に心をとらわれ、打ちこむ瞬間に気を使えば、それに心をとられ、自分の心の在りように気を使えば、自分の心に心をとられてしまいます。このようなことでは、自分自身は抜殻のようなもので、なんの働きもできません。
あなたにも、そんな体験はおありのことと思います。それを仏法にあてはめて申しました。
仏法では、このとらわれる心を迷いといい、無明住地煩悩というのであります。
禅宗には是を還って鎗頭を把み、倒まに人を刺し来ると申し候。人の持ちたる刀を我が方(かた)へもぎ取りて、還って相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ申す可く候。
敵に我身を置けば、敵に心をととられ、候間、我身にも心を置くべからず。我が身にも心を引きしめて置くも、初心の間、習入り、候時の事なるべし。
太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覚え有る可く候、仏法と引当て申すにて候。
仏法には、此止まる心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。沢庵『不動智神妙録』28
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『不動心』(第76回)
自然の理と自分の信念による言動
自然の理にかなった言動を行うのに遠慮はいらない。それについてまわる非難や論評にいちいち心を悩ます必要はない。何を行い何を語るにしろ、それが正しければ堂々とやればいい。あなたを批判する人間にはそれなりの理由もあり、いっときの感情に駆られてそうする場合だってあるだろう。しかし、そんな人間に目を奪われていてはいけない。ただあなた自身の本性と世界の自然に従ってまっすぐに道を歩んでいくことだ。
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『臥牛先生遺教抄』(第32回)
磯釣のお話に、かつて波渡の漁夫藤平に就て予が数年経験せし事どもを挙げ、かようの時は如何せん、あのようなる折は如何と問いしに、藤平しばし黙して居りしが「釣は一度竿をぶっこめば魚を獲るまで止めぬものぞ」と言う。さてさて聞きしに優る名人と感服せり。由良の九郎兵衛は、「釣は魚より教えらるるなり。そこに心付かぬ人は上手にはなにぬ」と言う。是れ亦名言なり。今和泉の勘十郎は誰彼となく皆へ、釣り獲させたく思い居るなり。この味は前者と異なれども亦面白し。しかし藤平の言は根本にして道を学ぶ者の第一なくたならぬ事なり。
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昨日は枕崎へお墓詣りに行ってきました。自宅を出て真直ぐお墓へ向かい懇ろに合掌してきました。そして付揚屋さんへ行き、そして中島先生が勤務する別府小学校へご挨拶に伺いました。その後南九州縦貫道経由で帰りました。述べ200キロ、5時間半かかりました。指さし確認をして安全運転をしました。
先日高速道路で、妨害運転をした25歳の男が逮捕されたと報じました。報道を御覧になられた全国の人々は加害者の行動に憤懣やるかたない思いであったと思います。
駐車場で、駐車場所以外の所に停車していたため、親切に諭してくれた人を死においやる行為は断じて許されざる行為でしょう。これは殺人事件と同罪で扱うべきだと思います。
こういう男は刑務所から出したら又同様の事件を引き起こすのです。万一出所しても免許を与えては行けません。
この男に似た同級生がいました。数年前なくなりましたが。それはそれは性質の悪い男でした。こういう人間は死後の世界でも苦しめられるのだというテレビドラマを見ましたが、罪の償いは永遠にしなければならないと思います。
自らが漢籍を繙き、堯舜の世界の聖人に生き方を学び、それを人様にも分け与え、仲よく処世に挑むようにすればなんと楽しいことでしょう。至らない私は、連日漢籍等々を繙き、生き方を学び大変嬉しい日々を過ごしています。
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とらわれる心が迷い
禅宗では、これを還って鎗頭(そうとう)を把(つか)み倒(さかし)まに人を刺し来るといっています。鎗はほこのことをいいます。人の持っている刀を我が方にもぎ取って、逆に相手を切るということです。あなたのいわれる無刀ということがそれです。
向こうから打ってこようが、こちらから打っていこうが、どんな人がどう打ってくるかなど、どんなことにでも、ちょっとでも心がとらわれてしまうと、こちらの動きがお留守になって切られてしまうでしょう。
敵の心を意識的に知ろうとすれば、かえって敵に心を見すかされます。自分の心を一定以上にひきしめておくのは、初心者の頃、未だ修行を始めたばかりの時のことです。
自分の刀の動きを気にすれば、自分の刀に心をとらわれ、打ちこむ瞬間に気を使えば、それに心をとられ、自分の心の在りように気を使えば、自分の心に心をとられてしまいます。このようなことでは、自分自身は抜殻のようなもので、なんの働きもできません。
あなたにも、そんな体験はおありのことと思います。それを仏法にあてはめて申しました。
仏法では、このとらわれる心を迷いといい、無明住地煩悩というのであります。
禅宗には是を還って鎗頭を把み、倒まに人を刺し来ると申し候。人の持ちたる刀を我が方(かた)へもぎ取りて、還って相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ申す可く候。
敵に我身を置けば、敵に心をととられ、候間、我身にも心を置くべからず。我が身にも心を引きしめて置くも、初心の間、習入り、候時の事なるべし。
太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覚え有る可く候、仏法と引当て申すにて候。
仏法には、此止まる心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。沢庵『不動智神妙録』28
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『不動心』(第76回)
自然の理と自分の信念による言動
自然の理にかなった言動を行うのに遠慮はいらない。それについてまわる非難や論評にいちいち心を悩ます必要はない。何を行い何を語るにしろ、それが正しければ堂々とやればいい。あなたを批判する人間にはそれなりの理由もあり、いっときの感情に駆られてそうする場合だってあるだろう。しかし、そんな人間に目を奪われていてはいけない。ただあなた自身の本性と世界の自然に従ってまっすぐに道を歩んでいくことだ。
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『臥牛先生遺教抄』(第32回)
磯釣のお話に、かつて波渡の漁夫藤平に就て予が数年経験せし事どもを挙げ、かようの時は如何せん、あのようなる折は如何と問いしに、藤平しばし黙して居りしが「釣は一度竿をぶっこめば魚を獲るまで止めぬものぞ」と言う。さてさて聞きしに優る名人と感服せり。由良の九郎兵衛は、「釣は魚より教えらるるなり。そこに心付かぬ人は上手にはなにぬ」と言う。是れ亦名言なり。今和泉の勘十郎は誰彼となく皆へ、釣り獲させたく思い居るなり。この味は前者と異なれども亦面白し。しかし藤平の言は根本にして道を学ぶ者の第一なくたならぬ事なり。
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昨日は枕崎へお墓詣りに行ってきました。自宅を出て真直ぐお墓へ向かい懇ろに合掌してきました。そして付揚屋さんへ行き、そして中島先生が勤務する別府小学校へご挨拶に伺いました。その後南九州縦貫道経由で帰りました。述べ200キロ、5時間半かかりました。指さし確認をして安全運転をしました。
先日高速道路で、妨害運転をした25歳の男が逮捕されたと報じました。報道を御覧になられた全国の人々は加害者の行動に憤懣やるかたない思いであったと思います。
駐車場で、駐車場所以外の所に停車していたため、親切に諭してくれた人を死においやる行為は断じて許されざる行為でしょう。これは殺人事件と同罪で扱うべきだと思います。
こういう男は刑務所から出したら又同様の事件を引き起こすのです。万一出所しても免許を与えては行けません。
この男に似た同級生がいました。数年前なくなりましたが。それはそれは性質の悪い男でした。こういう人間は死後の世界でも苦しめられるのだというテレビドラマを見ましたが、罪の償いは永遠にしなければならないと思います。
自らが漢籍を繙き、堯舜の世界の聖人に生き方を学び、それを人様にも分け与え、仲よく処世に挑むようにすればなんと楽しいことでしょう。至らない私は、連日漢籍等々を繙き、生き方を学び大変嬉しい日々を過ごしています。
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