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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

とらわれる心が迷い

2017-10-11 09:34:12 | ブログ
第3207号 29.10.11(水)

 とらわれる心が迷い

 禅宗では、これを還って鎗頭(そうとう)を把(つか)み倒(さかし)まに人を刺し来るといっています。鎗はほこのことをいいます。人の持っている刀を我が方にもぎ取って、逆に相手を切るということです。あなたのいわれる無刀ということがそれです。
 向こうから打ってこようが、こちらから打っていこうが、どんな人がどう打ってくるかなど、どんなことにでも、ちょっとでも心がとらわれてしまうと、こちらの動きがお留守になって切られてしまうでしょう。
 敵の心を意識的に知ろうとすれば、かえって敵に心を見すかされます。自分の心を一定以上にひきしめておくのは、初心者の頃、未だ修行を始めたばかりの時のことです。
 自分の刀の動きを気にすれば、自分の刀に心をとらわれ、打ちこむ瞬間に気を使えば、それに心をとられ、自分の心の在りように気を使えば、自分の心に心をとられてしまいます。このようなことでは、自分自身は抜殻のようなもので、なんの働きもできません。
 あなたにも、そんな体験はおありのことと思います。それを仏法にあてはめて申しました。
 仏法では、このとらわれる心を迷いといい、無明住地煩悩というのであります。


 禅宗には是を還って鎗頭を把み、倒まに人を刺し来ると申し候。人の持ちたる刀を我が方(かた)へもぎ取りて、還って相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
 向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ申す可く候。
 敵に我身を置けば、敵に心をととられ、候間、我身にも心を置くべからず。我が身にも心を引きしめて置くも、初心の間、習入り、候時の事なるべし。
 太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覚え有る可く候、仏法と引当て申すにて候。
 仏法には、此止まる心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。沢庵『不動智神妙録』28

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『不動心』(第76回)

 自然の理と自分の信念による言動

 自然の理にかなった言動を行うのに遠慮はいらない。それについてまわる非難や論評にいちいち心を悩ます必要はない。何を行い何を語るにしろ、それが正しければ堂々とやればいい。あなたを批判する人間にはそれなりの理由もあり、いっときの感情に駆られてそうする場合だってあるだろう。しかし、そんな人間に目を奪われていてはいけない。ただあなた自身の本性と世界の自然に従ってまっすぐに道を歩んでいくことだ。

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『臥牛先生遺教抄』(第32回)

 磯釣のお話に、かつて波渡の漁夫藤平に就て予が数年経験せし事どもを挙げ、かようの時は如何せん、あのようなる折は如何と問いしに、藤平しばし黙して居りしが「釣は一度竿をぶっこめば魚を獲るまで止めぬものぞ」と言う。さてさて聞きしに優る名人と感服せり。由良の九郎兵衛は、「釣は魚より教えらるるなり。そこに心付かぬ人は上手にはなにぬ」と言う。是れ亦名言なり。今和泉の勘十郎は誰彼となく皆へ、釣り獲させたく思い居るなり。この味は前者と異なれども亦面白し。しかし藤平の言は根本にして道を学ぶ者の第一なくたならぬ事なり。
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昨日は枕崎へお墓詣りに行ってきました。自宅を出て真直ぐお墓へ向かい懇ろに合掌してきました。そして付揚屋さんへ行き、そして中島先生が勤務する別府小学校へご挨拶に伺いました。その後南九州縦貫道経由で帰りました。述べ200キロ、5時間半かかりました。指さし確認をして安全運転をしました。

 先日高速道路で、妨害運転をした25歳の男が逮捕されたと報じました。報道を御覧になられた全国の人々は加害者の行動に憤懣やるかたない思いであったと思います。
 駐車場で、駐車場所以外の所に停車していたため、親切に諭してくれた人を死においやる行為は断じて許されざる行為でしょう。これは殺人事件と同罪で扱うべきだと思います。
 こういう男は刑務所から出したら又同様の事件を引き起こすのです。万一出所しても免許を与えては行けません。

 この男に似た同級生がいました。数年前なくなりましたが。それはそれは性質の悪い男でした。こういう人間は死後の世界でも苦しめられるのだというテレビドラマを見ましたが、罪の償いは永遠にしなければならないと思います。

 自らが漢籍を繙き、堯舜の世界の聖人に生き方を学び、それを人様にも分け与え、仲よく処世に挑むようにすればなんと楽しいことでしょう。至らない私は、連日漢籍等々を繙き、生き方を学び大変嬉しい日々を過ごしています。

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無明とは、明になしと申す文字にて候。

2017-10-10 09:57:20 | ブログ
第3206号 29.10.10(火)

心がとらわれると切られる
 無明とは、明(あきらか)になしと申す文字にて候(そうろう)。迷を申し候。住地とは、止る位と申す文字にて候。仏法修行に、五十ニ位と申す事の候。その五十ニ位の内に、物毎に心の止る所を、住地と申し候。住は止まると申す義理にて候。止まると申すは、何事に付ても其事に心を止るを申し候。
 貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切太刀を一目見て、其儘にそこにて合わんと思へば、向ふの太刀に其儘に心が止まりて、手前の働きが抜け候て、向ふの人にきられ候。是れを止まると申し候。沢庵『不動智神妙録』26


 無明住地煩悩
 無明という文字は明らかでないという意味です。明らかでないところに迷いが生じるので、迷いを意味します。
 仏法には、修行の段階を五十二に分けた、五十二位というものがありますが、住地とはそのなかの一つです。物事に心が止まることを指しているのです。
 住という文字には止まるという意味があり、何かにつけて心が一つのことにとらわれるのを、心が止まる、すなわち住地というのです。
 この無明住地を、あなたがよくご存知の兵法にたとえて説明してみましょう。
 敵が刀を降り上げて切りかかってきたとします。その刀を一目見て、「あっ、来るな。」などと思うと、相手の刀を動きに心がひきずられて、ことらは自由に動くことができずに切られてしまいます。
 打ちこんできた刀を見ることは見るのですが、それに対して、ここで相手の刀を切りかえそうとか、どう討ちこもうかなどと思慮分別を一切持たずに、つまり少しもとらわれることなく、ただただ相手の刀に応じていけば、切りかかってきた刀をこちらにもぎ取って、かえって相手を切ることができるのです。

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『不動心』(第75回)

 「逃げ」は解決にならない
 うんざりするほど厄介な考え、いやいや押しつけられた考え、そういうものをことごとく追い払ってすべてを忘れ去り、たちどころに心の平安を得られるのなら、それはなんという慰めであろうか。

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『臥牛先生遺教抄』(第31回)

 予は為すべき事と思えば必ず行い、又為すべからざる事は決して為さず。此の精神だけは人に敗けぬ心なり。過ちを潔く改むるこそ真の力張りと申すべけれ。予若し過たばきっと改めんと思い居るぞ。過ちを改めたる時は実に心神爽快なるものなり。
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昨日は、若狭 勝著『参謀力』を購入して参りました。プロローグを拝読し、私が想像していた若狭さん像がそこにありました。

 政事家は信用できないといわれるが、若狭さんは元東京地検副部長をしてきた方であるので、われわれ純粋な者を裏切る筈がないと思っていました。まさしくそのとおりだと溜飲を下げている次第です。

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其の精を極むる有りて、而も亂れず、

2017-10-08 17:10:24 | ブログ
第3205号 29.10.09(月)

問ふ、之を析(わか)って以て其の精を極むる有りて、而も亂れず、然る後之を合せて以て其の大を盡す有りて、而も余り無し、と。此の言如何、と。先生曰く、恐らくは亦未だ盡さず。此の理豈分析を容(べ)けんや。又何を須(まっ)てか湊合せん。聖人、精一を説いて自ら是れ盡す、と。『伝習録』(伝習録巻上)89

 (陸澄)問う、「朱子の大学或問の中に、学問の方法を説いて、『物事の理を分析して精微の極に至り、しかも乱れることがなく、その後でこれを集め合せて、その大を尽くして余りがないというように、まず分析し、次に綜合して、細理と大理とを明らかにすべきだ。』とありますが、この言葉は如何でしょうか。」先生曰く、これはまだ完全な言葉ではないと思う。何となれば理というものはどうして分析したり、綜合したりすることができよう。理はそんなに器用に扱い得るものではない。聖人は惟れ精、惟れ一を説いたが、これこそ理を求める方法を説き尽くしている。」  

 【コメント】その昔若い時、分けが分からないまま、観念論を語り合ったものですが、どんな難解なことであっても、日常的に応用活用できるようにたいものです。

 世の事象は簡単なものの組み合わせから出来上がっていると思います。

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『不動心』(第74回)

 不幸を不幸にしない心の持ち方
 誰にでも不幸は起り得る。だが、それを辛いと思わない人間はそう多くはないだろう。幸運だったこと考えないで、不幸なことだけを思いめぐらすのは、いったどういう理由だろう。。人間性に反しないものなら不幸と呼べないし、人間として当然の意志に沿うものなら人間性に反しているとはいえないだろう。
 人間として当然の意志とは何であるかについては、すでに理解しているはずである。正義、寛大、節度、賢明さ、思慮分別、誠実、謙虚、自立心----人間性はこれらによって完璧なものとなるが、そのうちのどの一つでも損なわれたというのだろうか。だから、以後何か辛い目にあったときにはこういうことにしたまえ。「これは不幸ではない。むしろこの不幸に立派に耐え抜くことは、私にとっては幸運なのだ」と。

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『臥牛先生遺教抄』(第30回)

 過ちは改めざれば初めて過ちになるぞ。故に孔夫子も過って改めざる、是れを過てりというとのたまえり。如何なる聖賢と雖も過ちは必ずあるものなれども、聖賢は人目に見えざる内、自ら反省して改むる故過ちなきように見ゆるならん。独座の中過ちを改むるを楽しと思うようになれば初めて学びの道に入りたる人と言うべし。
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総選挙の公示が明日に迫りました。どの方々が栄誉を勝ち得て国の為働くのでしょう。思うに、選挙前にどの政党がいいということではなく、その座を占めたら、人々に訴えていた言葉を裏切ることの無きよう願いたいものです。

 訴えでは、人あたりのいいことを口にしますが、それが長く続いた時に、人々の頭脳に精神に、どう反映するかということです。

 戦争をしてはなりませんが、先ずは率先垂範して働く勤労精神旺盛な人づくりが大事でしょう。そして勤勉であること、粘り強い継続心があること、勤倹節約の精神を持つこと、忠恕の精神を持つこと、世の人々と真摯的に共存するということ等々、枚挙に暇がありません。

 人は怠けがちです。そういう人を自ら動きだすように指導することも大切だと思います。

 11月22日には荘内へ伺います。荘内南洲会の先生方、何卒よろしくお願い致します。

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淮南子に曰く、周公の文王に事ふるや、

2017-10-07 15:38:56 | ブログ
第3204号 29.10.08(日)

淮南子に曰く、周公の文王に事ふるや、行専制すること無く、事己に由ること無し。身、衣に勝(た)へざるが若(ごと)く、言、口より出でざるが若(ごと)し。文王に捧持すること有れば、洞洞屬屬(どうどうしょくしょく)として、勝へざらんとするが如く、之を失はんことを恐るるが如し。子たることを能くすと謂ふ可し。『小学』(稽古第四)187

 『淮南子』に周公の文王に仕える敬虔ぶりを称していう。周公はその父文王に仕えては、いっさい父の意志とその命令によって行ない、自分勝手に事を決め、且つ行なうようなことはなかった。文王に侍しては、身体は衣服の重さに耐えかねるように身を低くし、言葉はまるで口から出ないかのように、決して声高に言うことはなかった。文王のために何か物を奉持する時には、しくじりはしないかと緊張の極にあった。このような態度はまことに子たる作法に適った立派なものである。

 【コメント】文王世子篇・中庸篇・『淮南子』の三篇により、周の文王・武王・周公の孝を述べた前言を実行したわけであるが、舜の場合と同じく、前言を実にするというよりも、同じような観念的典型を反覆羅列したと言った方がよい、とあります。この『淮南子』の周公讃美は、その最も良い例として参考としてよいものだと思います。
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『不動心』(第73回)

 あなたの知っている人のことを考えてみてください。誰かの葬式をとりしきった当の本人が、次には土中深く横たわり、別の人間のとむらいを受けることになる。しかも、それはほんの束の間のできごとだ。人間の生とは、なんと移ろいやすく取るに足りないものなのか。昨日精液の一滴に宿っていた生は、明日にはわずか一握りの灰に帰してしまう。
 だから、この過ぎゆく一瞬一瞬を自然の命ずるままに生き、悪びれることなく死を迎えたまえ。さながら熟しきったオリーブの実が、自らを生み出した大地を祝福し、生命を与えてくれた木に感謝を捧げながら落ちていくように。

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『臥牛先生遺教抄』(第29回)

 常に身を省みて学ぶべし。曾子の日々三たび吾が身を省みるとは三回と限るに非ず、幾回も省み、足らざるを知りて勉むるなり。省みる居ながら後を顧みるにあらず、進取の気象旺盛なるより生ずるなり。
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武王・周公は、其れ達孝なるかな。

2017-10-07 09:29:24 | ブログ
第3203号 29.10.07(土)

孔子曰く、武王・周公は、其れ達孝なるかな。夫れ孝とは、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。其の位を踐み、其の禮を行ひ、其の樂を奏し、其の尊ぶ所を敬し、其の親しむ所を愛す。死に事ふること生に事ふるが如く、亡に事ふること存に事ふるが如くなるは、孝の至なり。『小学』(稽古第四)186

 孔子がいう。武王と周公との孝は、天下誰一人として不足をいうものがない。達孝と言うべきである。孝とは先人の志を継ぎ、先人の事業をつぎ、これを明らかにすることである。武王と周公とは、王季・文王のかつて立った位にのぼり、その行った礼を行い、その奏した音楽を奏した音楽を奏して祭りをする。その敬する所は、祖父と父との尊んだ人々であり、その愛する所は、皆その父と祖父との親しんだ人々並びにその関係者である。すでに亡き先人に、その生存しているのに対するのと同じ心、同じ態度でつかえ得るのは、孝の至りというべきである。

 【コメント】祖父と父とがかつて尊敬親愛したように、人の臣下たり人の子孫たるの道を正しく履む人を敬愛することは大事なことだと思います。

 これは家庭内だけでなく、処世を共にする人々との信頼関係が大事ではないかと思います。お互いを尊び、そして出来る範囲で助け合い、人生を共に喜びあいたいものだと思います。

 その為には平和・安全だけに溺れず、自らが身体を鍛える意味においても、難儀を自ら買ってでる気概があってもいいのではないかと思います。

 私の一生はそういう人生でした。これからもそれを踏襲して参りたいと思っています。特に訴えたいことは、『南洲翁遺訓』を始め古典を座右に置き、日々繙いて欲しいと思います。

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『不動心』(第72回)

 ものごとの連鎖形態を考えてみること
 後に続いて来るものは、それに先立つのと密接に結びついている。それは、ばらばらなできごとが単に連続して進行しているというのではなく、合理的な連絡を相互に持っている。さらに、すでに存在しているものがみな調和を保っているように、今生まれようとしているものもすべて単なる連続ではなく、みごとな連鎖形態を示している。

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『臥牛先生遺教抄』(第28回)

 万事大体に立ち居れば、機会を失わず隙のなきものなり。歴史をもよく見るべし。英雄豪傑の事をなさんとするや、先ず物を動かして機会を作り出すものなり。今日事のなき時には仕事も出来ず、動きの出る時はその機をはずさず取り掛かるべし。されども大体立たざれば、たとい機会ありとも皆その機会を偶然に過ぐすなり。英雄豪傑は決して然らず、たとい禍ありとも必ず転じて福とするものなり。
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