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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

曾子疾有り、門弟子を召して曰く、予が足をみよ。

2017-10-15 17:31:06 | ブログ
第3212号 29.10.16(月)

曾子疾有り、門弟子を召して曰く、予が足を啓(み)、予が手を啓よ。詩に云ふ、戦々恐々として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し、と。今にして後、吾免(まぬが)るることを知るかな、小子、と。『小学』(稽古第四)197

 曾子が重病で死期の近いのを知ったとき、門人を呼びよせて、これに告げて言った。「自分の足を視てくれ、自分の手を視てくれ。『詩経』に『深い淵に臨むように、また薄い氷を履み渡るように、恐れつつしみ、気をつけよ』とあるが、自分もその気持ちで一生を送って来た。幸いに父母からいただいたこの身体を傷つけず、辱めることなく、亡き父母にお返しすることができ、自分もこれでやっと不幸の罪を免れることができそうだ。随分むつかしいことであったよ。」197

 【コメント】曾子の心がけは立派なことだと思います。でも、自分の身体を無傷にすることも大事たが、自分同様、他人様にも指一本ふれず大事にしなければなりません。
 
 私が知っている人で自分の親のいうことはよく聞くが、同級生を夜襲し、投げ飛ばしたり、殴ったりする人がおりました。そういうことをすれば批判がでるのは当然のことですが、今度は批判する人に暴行をするのでした。ただ身体が大きいというだけで、喧嘩の対象にされるのは困ったものです。

 それでいて私と話す時は、自分が如何に清廉であるかと話したものです。

 今、選挙運動期間中で世間は賑やかですが、菅原兵治先生みたいな人が党首にいたら、人々から推戴されるのでしょうが、と思う事しきりです。昨日、揖宿の大先生が合吟をするため来てくれました。そこで菅原先生のことを話して意気投合した次第でした。指宿の先生に詩吟の指導をして貰いました。

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『不動心』(第81回)

 無知と虚栄の強さ

 本来、耐えられないようなことは決して誰にも起こらない。ところが、あなたがある体験ですっかり打ちのめされているのに、隣人は同じ体験をしながら少しも動ぜず、悠然としている場合もある。だがそれは、彼がそのできごとをよくわかっていないか、自分の勇気をひけらかそうと意地をはっているかのどちらかだ。遺憾ではあるが、無知と虚栄心のほうが智恵よりも強さを発揮するものなのだ。

 アウレリウスは上のように教えていますが、沢庵和尚までいかずとも、経験を踏まえて、さらに学修し智恵を修得し、生きる処世の糧として構築している人もいると思います。天風先生、しかりです。

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『臥牛先生遺教抄』(第37回)

 人を待遇するに公平ならずばあるべからず。さりとて賢不肖の差別なく平等に待遇するを公平と思える者あり。これは俗公平というものにて大いなる誤りなり。常に賢不肖をよく吟味し、賢なれば尊信し不肖なりとて捨てはせず、矜れみて誘掖するこそ真の公平なりと。
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公明宣、三年書を讀まず。

2017-10-14 15:14:06 | ブログ
第3211号 29.10.14(日)

公明宣、曾子に学ぶ。三年書を讀まず。曾子曰く、宣、而参(なんじしん)の門に居ること三年、学ばざるは何ぞや、と。公明宣曰く、安(いづく)んぞ敢て学ばざらんや。宣、夫子の庭に居るを見るに、親在(いま)さば、叱咤の聲未だ曾て犬馬に至らず。宣之を説(よろこ)び、学びて未だ能くせず。宣、夫子の賓客に応ずるを見るに、恭倹にして懈惰せず。宣、之を説び、学びて未だ能くせず。宣、夫子の朝廷に居るを見るに、嚴もて下に臨みて、而も毀傷せず。宣之を説び、学びて未だ能くせず。宣此の三者を説び、学びて未だ能くせざるなり。宣安んぞ敢て学ばずして、夫子の門に居らんや、と。

 公明宣が曾子に弟子入りをして久しくなるのに、書物を読まないので、曾子が「宣、お前は私の所へ来ても、久しい閒、一向に勉強しないが、どうしたのか」と尋ねた。公明宣は、「決して勉強しないわけではありません。実は私は先生が中庭におられるご様子を拝見しますと、ご両親の前では、犬や馬さえ大声でお叱りになったことがございません。大いに感服して私も努力しておりますが、まだできません。また、先生が賓客に応対される態度は、実に恭しくつつましく、一切だらけたご様子がありません。大いに感服して、私も努力しておりますが、まだできません。また、先生が朝廷に出られた時のご様子を視ますと、下の者には厳格荘重の態度を示されますが、それらをきずつけるようなことがありません。大いに感服して私も努力しておりますが、まだできません。私はこの三つのことに感服して一所懸命に努力しています。私は勉強もしないで先生の所にぐずぐずしているようなことはありません」と答えた。

 【コメント】曾子の問いに答えた公明宣の答えは、生きた学問をしていますと、明確に答えていると理解していいと思います。人間は正しい行為の実践が大切で、まさしく生きた学問だと思います。

 昨日も書きましたが、車の運転で人様から注意されたことに感謝することも出来ない人間にもこのようなことを教えたい思いですが、幼少の頃から、いい加減な親に、いい加減に育てられたのでしょう、人間の内で一番貴いことを教えられない人間は、いつもそういうことの繰り返しをすることでしょう。

 私が独立愚連隊みたいなことをすれば、母親に薪でなぐられた上に、御飯も食べさせて貰えないことだったと思います。

 今頃は、母親が厳しく育てると、周囲の識者と言われる連中が体罰だ何だと騒ぎたてるから困ったものです。少々の体罰では人は死なないのです。

 教諭とかのオジサンオバサンが、さも知ったかぶりに解説するのも困ったものです。ああいう男は人間の本当のことがわっていないのです。

 連日賑わっている選挙運動ですが、リベラルと言われる人々の労働組合が、平和平和・安全安全で生徒を甘やかせ、子供を甘やかせした後遺症が、今日の現象なのです。

 30年位前、リベラル派の学校教諭が世の乱れを追及したのが週刊誌に掲載されました。それに対して、「日教組、お前が犯人ではないか」というのがありました。

 その辺は長年労働組合の役員をしてきた私はそのとおりだ思ったものです。子供は殴ってでも、好い子に育つよう導かなければならないのです。

 要するに長い人生において、お巡りさんのお世話にならないこと、被疑者にならないことが大切だと思います。甘やかして善い事はないのです。

 昨夜の空手道教室も賑わいましたが、一人の子供が真面目にしない上、道場の壁を叩いたので厳しく厳しく指導しました。それは躾の一貫なのです。
 普通の子供は叱ると言葉は理解できるのですが、特別支援学級で学んでいる子供は理解が出来ないのです。そういう時は、身体で覚えて貰う以外にないのです。

 田上青年は17年御稽古していますが、優しく、また厳しくを繰り返して参りました。最初からすると成長度は隔世の感があります。やがては一人で生きていかなければならないので、それに向っての人間づくりを日々少しずつしなければならないのです。

 子供は何もわからないのです。甘やかすだけではダメだと思います。数年前、入会した6年生の子供は2回来ただけで御稽古はしていませんが、学校でオチンチンを露出し女性教諭にだきついたのだと聞きました。その内新聞紙上を賑わすことになると思います。

 私の母は学校から帰ってくるのを待っており、山へ薪とりに、畑へ草取りにと連日、厳しく働かせられたものでした。そういう過去の日々のお蔭で今は元気なのだと思っています。

 ここで皆さんに御願いしたいことは、子供に、勤勉性を、勤労精神を、粘り強さを、積極性を、節約倹約の心を、人様に優しさを、物に愛情を、長い人生へ挑戦する気概を構築できる人間へと成長されるよう促して欲しいと思います。
 
 まかり間違ってもギャンブルはしないことです。藤井ソウタ君が将棋で脚光を浴びた関係で、その熱が盛んであるらしいですが、出来れば将棋よりか学問をした方がいいと思います。

 私は父がそれで失敗をしたから、囲碁・将棋もギャンブルだという捉え方をしています。文武両道こそが最高だと思います。

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『不動心』(第80回)

 人間の本分を知るということ
 人間性と無縁なものは、われわれにとって財産でも何でもないのだから、唾棄したところで構わない。そんなものに頼らず生きていく能力のほうが、むしろ賞讃に値するくらいだ。仮にその中に有益なものがあったにしろ、その恩恵にあずからなくても十分善い人間になれる。いや、むしろ人間に縁のないものからはことごとく手を切ったほうが、立派な人間に成長していくのである。

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『臥牛先生遺教抄』(第36回)

 朋友を好み先生を悦ぶ人は、道を学ぶに於て間違いなきものなり。
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一たび足を擧ぐるにも敢えて父母を忘れず。

2017-10-13 16:58:06 | ブログ
第3210号 29.10.14(土)

一たび足を挙ぐるにも敢て父母を忘れず、是の故に道して径(こみち)せず、舟して游(およ)がず。敢て先父母の遺体を以て殆(あやう)きに行かざるなり。一たび言を出だすにも敢て父母を忘れず、是の故に悪言口より出さず、忿言(ふんげん)身に反らず、其の身を辱(はづか)しめず、其の親を羞(はづか)しめざるは、孝と謂ふべし。『小学』(稽古第四)191

 一たび足をあげるにも父母を忘れないならば、陸地をゆく場合には大道を通り、急いでも危ういこみちは避け、水路をゆく場合には、必ず舟に乗り、急ぐからとて泳ぎなどしない。すべて父母から遺されたこの体、この自己を危うい所にはやらないようにする。また一たび言葉を出すにも、父母を忘れないようにする。そうすれば悪口を口から発せず、人の怒りの言葉を自分に受けるようなことはない。このようにして、自己の身を辱めないのが孝である。

 【コメント】この所車運転に関する交通事件のことが話題に上っています。東名高速道路で車両を停車させ、夫妻二人を死亡させたとする25歳の男は厳しく罰しなければならないと思います。

 このような男も親に対しては孝行めいたことをするものですが、これらは親であっても、他人であっても同様に慈しむ心がなければなりません。

 円心会福岡本部長だった岩坪師範に同様の対応をすれば、車から引きずりおろそうとしたら、顔面に強烈な鉄拳、腹部に前ケリをくらって5メートル吹き飛ばされたのたがと思っています。25歳独立愚連隊の男も手ごわい相手には手も足も出ないでしょう。売られた喧嘩は買うということ自体、極めてナンセンスなのです。

 そういう時は、そういう物騒なことはなさらない方がいいと思います、と柔和な顔をして穏やかにさとす勇気が欲しいものです。

 高速道路でのあおり行為などがテレビ放映されていますが、何故そのようなことをするのでしょう。そういうことをする行為は全て天が認識しているのです。そういう人は、必ず天の制裁があるのです。賢明な人はそのようなことはしないのです。

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『不動心』(第79回)

 理性と行動の自動循環について
 理性とその活動は、本来の性質からいっても機能の仕方からいっても自動循環的なものである。理性が最初に刺激を受けるのは、そり自身の中に原因があってのことだ。いったん動きだせば、理性はこうと決めた目的に向かってまっしぐらにつき進んでいく。このように回り道をせずに理性が進んでいく運動は「直進性」と呼ばれる。

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『臥牛先生遺教抄』(第35回)

 人に切磋忠告するには、親切の心十ありて一つ二つを静かに言うべし。さすれば切磋を受くる人も聞き入れ易し。又人より切磋を愛くる時は無我無心になり、慎んで聞くべし。その言終わりて後心に落ち着かざる事あらば、静かに我が思いを申し述ぶべし。汝は待手なしにて人の言終わらざるに言い出す癖あり。よくよく慎むべし。
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とらわれた心は動けない

2017-10-12 14:42:51 | ブログ
第3209号 29.10.13(金)

  とらわれた心は動けない

 不動明王とは、人の心の動かぬさま、物ごとに止まらぬことを表しているのです。何かを一目見て、心がとらわれると、いろいろな気持ちや考えが胸のなかに湧き起こります。胸の中で、あれこれと思いわずらうわけです。こうして、何かにつけて心がとらわれるということは、一方では心を動かそうとしても動かないということなのです。自由自在に心を動かすことができないのです。
 たとえば十人の敵が一太刀ずつ、こちらに浴びせかけてきたとします。この時、一太刀を受け流して、それはそのままに心を遺さず、次々と打ってくる一太刀一太刀を同じように受け流すなら、十人全部に対して、立派に応戦できるはずです。十人に対して十度心を動かしながら、どの一人にも心を止めることをしなければ、どの敵に対しても応じられるのです。もし、一人の敵を前にして、心が止まるようなことがあれば、その一人の太刀は受け流すことができても、次の敵に対して、こちらの動きが抜けてしまうことなるでしょう。
 

 然れば不動明王と申すも、人の一心の動かぬ所を申し候。又身を動転せぬことにて候。動転せぬとは、物毎に留まらぬ事にて候。
 物一目見て、其心を止めぬを不動と申し候。なぜなれば、物に心が止まり候へば、いろいろの分別か胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。止れば止る心は動きても動かぬにて候。
 譬えば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、一太刀を受流して、跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働き欠かさぬにて候。
 十人十度心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取り合ひて働けば欠け申間敷候。
 若し又一人の前に心が止り候はば、一人の打太刀をば受流すべけれども、二人めの時は、手前の働抜け申可候。沢庵『不動智神妙録』32


 【コメント】福岡の土木建設作業員が、パーキングエリア駐車位置が悪いとして注意されたことにギャクギレし東名高速道路で当該車両を停車させ事件を起こしたとして、各テレビでは報道合戦をしています。

 これは加害者の精神状態の幼稚さを露呈したものであろうと思います。日本国民の精神状態は世界に誇るものだと私は思っていたのですが、これら事件を起こした人間の精神のイビツさは何に起因しているのでしょうか。

 思うに戦後教育に由来していると私は考えています。平和・平和・安全・安全で何等の躾けがなされず、我慢の教育欠如から来ていると思うのです。

 注意されたことに本人が感謝し自分を正せばいいだけのことなのです。それが平和教育一点張りで育った子供たちには、その余裕がないわけです。かく申す私は、母親から、毎日厳しく叱られ怒鳴られ育ってきたので、幾らか我慢・辛抱が出来るようになっています。今は母親に感謝しています。

 その方が健康にして長生きができると信じています。とにかく至らない自分を磨くために漢籍等々を毎日読み、自分の修行として位置づけたいものです。

 今回事件を起こした25歳の青年は世の中のこと何も分かっていないのです。厳しく罰して刑務所に収監すべきだと思います。

 そして今朝は高速道路での"あおり運転"の状況が報道されましたが、これらも厳しく罰すべきだと思います。

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『不動心』(第78回)

 人間の資質は自己を鍛えることで芽が出る

 たとえば誠実な人間になろうとか、貫禄をつけようとか、一生懸命働こうとか、節制しようとかに努力をすることが大切です。愚痴を言わず、倹約に努め、思いやりのある心を忘れずに、率直で言動穏やかな中にも毅然とした態度のとれる人物になれるよう、自分を鍛えることが大事である。
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『臥牛先生遺教抄』(第34回)

 朋友に交わるに、根本一つを切磋し枝葉は人々にて宜し。大徳に違わぬ事は人に因って異なるものと思うべし。
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 覚醒剤を使用したとして、清水良太郎が逮捕されました。その男と歌手の美川憲一氏と対談する場面が放映されました。美川憲一氏が自分も覚醒剤使用で逮捕された経験者として厳しく喩す場面が紹介されました。

 美川憲一氏が厳しく言い聞かすのを聞いて感心しました。が、逮捕された男は自分勝手な言い訳に終始しました。

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不動明王の教え

2017-10-11 15:51:42 | ブログ
第3208号 29.10.12(木)

不動明王の教え

 諸仏不動智という言葉があります。
 不動とは動かないということ、智は智恵の智です。動かないといっても、石や木のように、全く動かぬというのではありません。心は四方八方、左右と自由に動きながら、一つの物、一つの事には決してとらわれないのが不動智なのです。
 不動明王は、右手に剣を握り、左手に縄を持ち、歯をむき出し眼を怒らして、仏法を妨げようとする悪魔を取り押さえようと突立っておられるとされています。しかし、この不動明王は、仏法を守護するものとして姿、顔、かたちを作られておりながら、実は不動智を体現したものとして、不動智をの姿を人々に見せておられるのです。
 何もわからぬ普通の人間は、この姿に恐れて、仏法を妨げようなことなど、決してしまいと思うのですが、悟りに近づいた人々は、不動智ということをはっきりと知って、一切の迷いを晴らすのです。
 つまり、誰でも、不動明王ほどに不動智を自分自身のものにらすることができれば、どんな悪魔にも負けることはないと、不動明王の姿は語っているのです。


 諸仏不動智と申す事、不動とは、うごかずといふ文字にて候。智は智恵の智にて候。不動と申し候ても、石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。向ふへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動き度きやうに動きながら、卒度も止るぬ心を、不動智と申し候。
 不動明王と申して、右の手に剣を握り、左の手に縄を取りて、歯を喰い出し、目を怒らし、仏法を妨げん悪魔を、降伏せんとて突立て居られ候姿も、あの様なるが。何国の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容をば、仏法守護の形につくり、体をば、この不動智を体とて、衆生に見せたるにて候。
 一向の凡夫は、怖れをなして仏法に仇をなさじと思ひ、悟に近き人は、不動智を表したる所を悟りて、一切の迷いを晴らし、即ち不動智を明らめて、此身則ち不動明王程に、此心法をよく執行したる人は、悪魔もいやまさぬぞと、知らせん為の不動明王にて候。沢庵著『不動智神妙録』30


 【コメント】<沢庵和尚の生涯を見て、不動智を自分のものとして確立された人>だと感服しています。我々凡人には迚も為し難いことですけれども、先ずは日々一歩でも修行を重ねることだろうと思います。

 今、衆議院選挙運動期間中で世は大変賑やかです。世の中が平和であることは大変善い事です。然し、人間の一生には避けられない苦難がやってくるのです。

 そうした苦難に対して、どうして挑んで行くかということも大事なのです。今の政治家は、あれもしてあげる、これもしてあげると甘ごとが多すぎるようです。

 有権者も政治家に頼むことばかり考えず、自らを研鑚することに心掛けるべきだと思います。世の中見渡して、とにかく無駄と贅沢が過ぎると思うのは私一人だけではないと思います。

 自らを律するためにまずは『南洲翁遺訓』を毎日繙くことが大事だと思います。これほど素晴らしいものはないと確信します。これは西郷隆盛の訓えというよりか、荘内の教えなのです。

 私の詩吟道師匠竹下一雄先生は『南洲翁遺訓』のことについて、「味園さん、これは西郷さんの教えというが、違うのだよ、荘内の教えなのですよ」と何時も言っていたものです。

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『不動心』(第77回)

 自然の道を旅しているがゆえに

 自然の道を旅しているゆえ、私は時がくれば地に倒れ、永遠の眠りにつくだろう。毎日息を吸っていた大気の中に最後の息を吐き返し、父が種を、母が血を、そして乳母が私を育てる乳を得てきた大地へと身を沈めるだろう。大地は長い年月の間、食物と水を与え続けてきた。ひどく踏みにじられてきたにもかかわらず、今日も私がその上を歩くのをゆるしてくれるのだ。

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『臥牛先生遺教抄』(第33回)

 何事も必死になりて寝ても覚めても忘れぬようならば、成就すべし。予は磯釣ならば名人なり。一度臨みし釣場は決して忘れず。かつて磯釣に熱心なりし時、居間の畳の敷合わせより糸を垂れしも思う所に達せざりしかば、糸を上げては又沈め、沈めては又上げ、幾度か繰返して苦心すれども意の如くならずして夢さめし事あり。又厠に行き釣りの事を考えつつ出る事を忘れ、家人に呼ばれて初めて心付きたる事ありと笑わせ給いき。
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