goo blog サービス終了のお知らせ 

味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

五性感動して善悪分れ、萬事出づ。

2017-10-20 16:43:07 | ブログ
第3217号 29.10.21(土)

人形既に生じ、神発して知る。五性感動して善悪分れ、萬事出づ。聖人之を定むるに中正仁義を以てして、静を主とす。人極を立つ。故に聖人は天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、四時と其の序を合し、鬼神と其の吉凶を合す。君子は之を修めて吉、小人は之に悖りて凶なり。『近思録』(一道体)4

 人は形ができると、その心が活動して知の働きが起こる。心に備わる五行の性は外物に刺激されて動き、そこに善悪の区別が生じ、いろいろな事がらが出てくる。聖人は中正仁義によって五性の動きや万事をきちんと定め、心の静かなことを第一とする。そこに人極が立ってくる。故に聖人は、天地と同じ徳を持ち、日月と同じ明るさを持ち、四時と同じ順序で進み、鬼神と同じように吉凶を示す。君子は中正仁義の道を修めて吉を得、小人は中正仁義の道に背いて凶を得る。4

 【コメント】我々凡人も、五性の動きや万事をきちんと定め、心の静かなことを第一とすべく心掛けたいものです。
 
 そのような心掛けを全国で車の運転をする人々が持っていれば、あおりとか暴走運転はしないと思うのですが、如何なものでしょうか。

 明日は総選挙です。候補者は耳ざわりのいいことを叫んでいますが、当面の景気動向も大事ですが、半世紀先に素晴らしい成果を生み出す人々を択ばなくてはいけないと思います。

 今全国で、学校で先生をしていた人々6万人が精神科に入院しているそうです。この原因は何だと思いますか。生きて行く上においては厳しさもなければならないのです。安全・安心・平和ばかりではいけないのです。

 ですから空手道教室では子供たちに対して、将来力づよく生き抜く術を教えているのです。

-------------------
安岡正篤著『日本精神の研究』---政治の要諦---第2回

 南洲遺訓に彼の文明観を伝えて、
 文明とは、道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳衣服の美麗外観の浮華をいふに非ず。世人の唱ふる所何が 文明やら何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て、或人と議論せしことあり。西洋は野蛮ぢゃと云いしかば、否文明ぞと争 う。否野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにゃと推せしゆえ、実に分明ならば未開の国に対しなば慈愛を本と し、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮 ぢゃと申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑われける。
と云っている。
 文明と文化とを区別する様な煩論はしばらく措いて、社会生活を便利して装飾する機械的組織的成功が文明の本義ではない。誠に南洲の言の如く「道の普く行はるる」が文明の本義でなければならぬ。

--------------
『臥牛先生遺教抄』(第42回)

 凡そ志ある者は決して翻(ひるがえ)る事のなきものなり。奮発するかと思えば日ならずして屈し、憤排(ふんぴ)するかと思えば忽ち撓(たゆ)みなどするは、是れ皆志の立たざる故なり。志ある者は必ず求めある筈にして、終始益ある事を問うものぞ。而して必ずゆったりとしたるものなり。志なき者はせわしくてせわしくてとのたもう。暫くありて志は第一なり。是非聖賢に則るべし。則るの方は先ず聖賢の書を読みてこれを吾が身に体し、先覚に就いてひたすら益を求むるに在りとのたもう。
------------

博く学ん篤く志、切に問ひて近く思ふ。

2017-10-19 15:16:30 | ブログ
第3216号 29.10.20(金)

『近思録』は宋の朱熹・呂祖謙のキョ共編。『近思録』の「近思」の二字は、『論語』にある子夏の言葉から引用したもの。「博く学んで篤く志し、切に問ひて近く思ふ。仁其の中に在り。」というのがそれである。「切に問ひて近く思ふ。」とは、「切実なことがらを問い、身に引きつけてよく考える」意味であり、学問と日常生活の緊密な関係を示すものである。実際生活を背景にした学問が強調されているといってよいであろう。但し、「近思」とは、「身に引きつけて考える」ことである限り、実践の一歩前で止まり、「考える」ことに重点が置かれていると言わざるをえない。実践に先行する知識の問題が大きく出されているのである。もちろん、その知識はそれだけで終わるものでなく、常に実践を目的とする。しかも考える内容は、わが身についてである。そしてまた「わが身」とは、社会共同体を構成する部分としての「わが身」である。かかる「わが身」をどのように修めていくか、そこに学問の出発点があったのだし、その線に沿った学問こそ真の学問と受け取られたのである。常に身辺の問題について考え、そこに道を求めていくことが「近思」の二字のうちに表現されているのである。『近思録』9
 
 濂渓先生曰く、無極にして太極なり。太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復(また)動なり。一動一静、互に其の根を為し、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。陽變じ陰合して、水・火・木・金・土を生じ、五氣順布して、四時行(めぐ)る。


 濂渓先生が申された。「無極であって太極である。太極が動いて陽が生まれ、動が極点に達して静になる。静になって陰が生まれ、静が極点に達して再び動になる。あるいは動となり、あるいは静になるが、動静は互いに根基となりあう。太極が陰と陽とに分かれて両儀が成立する。そしてこの陰陽が変化合一して、水・火・木・金・土の五行を生じ、五行の氣が順次に排列して四季のうつりかわりができる。

 【コメント】濂渓先生とは周濂渓のこと、無極而大極は実体は太極であって、それが人の感覚で把捉できない点から無極という。太極は宇宙の原理ともいうべきもので、あらゆる事物の生成・存在・運動の根源になる、とあります。

 過去何回か読んできましたが、冒頭部分を書いてご紹介しました。西郷さんの時代、近思録崩れという学びの団体があったとのことですが、古の青年たちも喧々囂々(けんけんごうごう)議論したことでしょう。

 難解であってもまずは実践することが大事だと思います。

 昨夜の空手道教室も賑わいました。『南洲翁遺訓』を拝誦する子供たちの元気な声が荘内南洲会の先生方にも聞こえたのではないでしょうか。中でも佳那子さまの声はひときわ大きな声でした。こういう元気な子供たちに囲まれて御稽古ができる幸せを感じています。

 子供たちちに空手道修行についてお話しました。全国的にただ、型と組手の稽古をするわけですが、それでは駄目なのです。空手道を御稽古し、精神の錬磨がなければならないのです。それには『南洲翁遺訓』の学修が最適だと信じます。
 
 『南洲翁遺訓』は難解なのですが、日常的に口ずさんでいけば、やがてその意味するところが理解できるようになるのです。
 今日青少年の非違行為は後を絶ちませんが、今こそ『南洲翁遺訓』の精神を教えるべきだと思います。あと20年もたてば、君たちは社会の構成員となるのです。甘えていてはいけないのです、と話したら、それぞれ相槌をうってくれました。

 修行の態度が悪い時、何も言われずいい加減に育った方がいいか、悪い時はホッペタを打たれて立派になった方がいいかと聞いてみました。子供たちは例外なく厳しくして欲しいと答えました。

 昨日は早めに行き、安岡正篤著『日本精神の研究』にある----政道の要諦----西郷南洲の政治思想について---を拝読しました。少しくご紹介します。

 <久しく人間樊籠の裡にあれば泉石や煙霞が恋しくなる。所謂文化が人々を巧言令色にする時、山貌野言に言い知れぬ愉快を覚える。それは元より我々の真情に適するからである。今更煩瑣な文明批評家の言論を假るまでもなく、現代生活は余りに偽巧に勝ち矯飾に走って、殆ど眞趣の掬すべきものがない。何人も今日の様なそらぞらしい偽巧矯飾の生活を断じて眞の文化と考えることは出来ぬであらう。眞の文化は自然の純化であり向上でなければならぬ。我々は現代にもっと純朴な行動を欲し、眞に大地の直接な言葉を聞きたいと思ふ。
 今日政治学者や社会学其他一般思想家学者等の思想言動は果して国民に直接親しい道情を起し得るのであらうか。所謂「性を俗学におさめ、慾を俗思に滑(みだ)って」居る政治家や、飽くを知らぬ概念の遊戯に耽って居る学匠達に依って代表されて居る国家の政教生活は、今や余りに我々から縁遠い。かかる折明治の始尚ほ我々の頼もしい一大先達であった西郷南洲の政治思想を研究してみることは、恰も野に語る眞人に接する様な純な快さや健やかな力を心神に感ずるのである。彼に依って我々は眼前に蠢動する政客や学匠を高く超越して萬世の為に太平を開く工夫努力を教えられる。>『日本精神の研究』238

---------------
『臥牛先生遺教抄』(第41回)

 小子書道を好み、その心掛けを請問せしに、字を書くに先ず心を正しくし、精進斎戒し神仏に祈り而して筆を揮えば、その精神必ず字に顕わるるものと思う。是れ書の以て面白き所なり。書家の中にて独り北島雪山は、その趣を得たるかと思うとのたまえり。
-----------

天道は善に福し淫に禍す。

2017-10-18 17:09:46 | ブログ
第3215号 29.10.19(木)

王夏に克つ自(よ)り帰り、亳(はく)に至って、誕(おほ)いに萬方(ばんぽう)に告ぐ。王曰く、嗟(ああ)、爾萬方の有衆、明(つと)めて予一人の誥を聴け。惟れ皇(おほ)いなる上帝、衷を下民に降す。恆有るの性に若(したが)ひ、克く厥の猷(みち)を綏んずるは、惟れ后(きみ)なり。夏王徳を滅ぼし威を作(な)し、以て虐を爾萬方の百姓に敷く。爾萬方の百姓、其の凶害(きょうがい)に罹(かか)り、茶毒(とどく)に忍びず、竝(あまね)く無辜(むこ)を上下の神祇(しんぎ)に告ぐ。天道は善に福し淫に禍す。災は夏に降して、以て厥の罪を彰かにす。『書経』(湯誥)403

 湯王は夏(か)の桀王に勝って、そこから帰って来て都の亳に着くと、万邦の衆に向かって大いに宣告をされた。王はいった。「ああ、汝たちの万邦の衆人よ。一生懸命に予のいう話をきいてほしい。大いなる上帝はよき道を下なる民に降された。きまりのある与えられた性に順って、よくその道を安定するようにさせていくことこそは、君主というものである。ところが、夏の桀王は君主としての徳を失って威力の方を振るい、虐政を汝たち万邦の人々の上に広く行った。汝たち万邦の人々はその害悪を受けて、ひどい苦しみに堪えきれず、広く無実の罪を天地の神々に訴えたのである。天の道理というものは、善なるものには幸いを与え、間違ったものには禍いを与えるものである。そこで、天は災禍を夏に降すことによって、その罪を明らかにしたのである。

 【コメント】<天の道理というものは、善なるものには幸いを与え>というのはまさしく正論であります。医学者は医学が万全、科学者は科学が万全だと思っているてしょうが、天の理を無視しているように思われます。

 枕崎では30代の頭脳明晰で前途有望と言われた医者が40歳を待たずして死去しました。この方の日々の生き様をお聞きして唖然としたものです。医者は普通の人々に比べ知的に優れていると思いますが、それをいいことに世の人々を罵倒・無視している様を耳にし、これはいけないと思ったものです。

 天風師を学び多くの漢籍を繙き理解したことは、人の世で実践したいことは、金持ちであれ貧乏人であれ、知的の差はあれども、人の世に生れてきたという厳粛な事実です。ですから、西郷南洲翁の如く、人に差別無く親切にしてあげたいものです。そして出来れば西郷さんが繙いたという書籍は繙いてみたいものです。

 来年は大河ドラマが放映されるということで、経済効果があるということで、経済界はうつつを抜かしていますが、西郷さんの生き方をこそ学ぶべきだと考えます。

----------------
『不動心』(第84回)

 因果は絶えずその形を変える

 現在あるものも、これから生まれ来るものも、あっという間にわれわれの背後に押し流され、運び去られていく。「存在」は大河のごとく一瞬たりともとどまることを知らない。その流れは変化を続け、因果は絶えずその形を変える----そこにおいては何物もじっとしてはいられない。われわれのそばにはいつも「無限」が巨大な姿を現わし、過去と未来に手をこまねき続けている。あらゆるものはこの無限の深淵の中へと消えていく。それなのに苦しみのときが永遠に続くかのごとく思いこみ、あえいだりあたりちちらしたり、くよくよしたりしている人間とは、なんと浅はかなものであることよ。


 私の主張-----
 まさしくそのとおりだと思います。昨日も書きましたが、永くもない人生、おだやかに車の運転をし、自分もひと様も楽しく嬉しい車の運転をしたいものです。

 長くもない人生であるからこそ、人様へも良い思いをして貰った方がより満足でき気持ちもいい筈です。少なくとも、あおり運転などするものではありません。そういう人は後々大変な目にあうのです。厳しく生徒にあたる先生は、その子の将来に向けて、よりよい子供になりなさいというメッセージなのです。

 今朝のテレビ報道で中学生が自殺した件でいろいろ報道されていますが、如何なることがあっても、辛抱強く生き抜くよう育てるべきだと思います。

 私は貧乏家庭で育ち、双子ということで、双子双子と言われてきました。それでも喧嘩することなく、ぐっと堪え今に見て居ろと自分に言い聞かせてあらゆる武道を稽古してきました。

 特に大学にも行けなかったので、毎月月刊誌15冊を30年間購読し、片っ端から書き写してきました。そしてNHKの番組を20年間録画して学んできました。当時のNHKの番組が100点だとすると今は50点以下です。

 そして特に気の強い母親に育てられたことが功を奏して、働いて働いてを繰り返してきました。人間はみな同じだと思います。人ができることが自分にできないことはないのです。グッと我慢して、遠い将来をめざして頑張りたいものです。  今日云うサプリメントなんかいらないのです。西郷さんは口にいれるものがあるだけで感謝しなさいといっています。同感です。

----------------
『臥牛先生遺教抄』(第40回)

 志は譬えば家を建つる時の如し。この礎に深く念を入るべし。若し礎を忽せにすれば、数年ならずして傾斜生ずるものなれば、念に念をいれ入るべきなり。造作の如きは、人々の好みにてよしと仰せられき。
------------

文公以て下軍大夫と為せり。

2017-10-18 09:47:02 | ブログ
第3214号 29.10.18(水)

臼季使して冀(き)を過ぐ。冀の缺のくさざり、其の妻の之によえするを見る。敬にして、相待つこと賓の如し。
之と帰り、諸(これ)を文公に言ひて曰く、敬は徳の聚なり。能く敬すれば必ず徳有り。徳以て民を治む。君、請ふ之を用ひよ。臣聞く、門を出でては貧あるが如く、事を承(う)くるには祭あるが如きは、仁の則なり、と。文公以て下軍大夫と為せり。『小学』(稽古第四)212


 晋の文公の近臣臼季が君のために使いに出て、冀邑の郤缺が田の草をとり、その妻がこれに食物をおくりとどけるのを見た。二人の態度は敬(うやうや)しく、お互いに賓客を接待しているようであった。
 感嘆した臼季は郤缺をつれて帰り、文公にこれをすすめて言った。「敬は諸悪を集めるもので、人は敬ならば必ずすぐれた徳を有するに至るものであります。有徳ならば民を治め得ます。どうかこの人間を御挙用願います。古語に、門を出ては大賓に見ゆるように、事を仰せつかっては大祭につかえまつるように敬しむのが、仁の道である、とあるとか聞いております。」文公はこの語によって、郤缺を下軍大夫に任命することにしたという。213


 【コメント】「----事を仰せつかっては大祭につかえまつるように敬しむのが、仁の道である」という言葉を信用されて文公は郤缺を大夫に任命したということであります。

 政治を掌る人は、人の上に立つ人は、己の利を追及してはならないと思います。西郷隆盛がう「利を見ては全くしたがうなかれ」とあるように、天下国家のために、世の人々のために終生尽くす度量がなければなりません。

 選挙運動華やかなりし現今でありますが、西郷さんみたいな人が出て欲しいものです。

 連日、車の暴走運転、あおり運転などが話題になっておりますが、万一事故になったら、大変なことになるのです。人様に対して礼を失することをしたら天の制裁を受けるとは天風師の説くところです。全く同感だと思います。

 強く正しく、清く尊く、そして人様にも親切に致したいものです。そして子供は、甘えさせない、自分の努力で頑張れる、自分の人生を創りあげる意志のつよい人間を育てたいものです。

 子供を今甘やかせ、やがて気の抜けた人間になっていいか、それとも今子供相応に厳しく育てやがて子供に感謝されたほうがいいか、その選択の賢明さが問われていると思います。

 私は厳しい厳しい母に育てられました。そして事業倒産した父の借金を返済するため、人様の倍以上働いてきました。だから78歳の今でも元気なのです。

------------
『不動心』(第83回)

 人生の方向を決定づけるもの
 万物の中においては最高のもの、つまりすべてを支配し、すべてに法則を与えるものを崇拝せよ。同じく、あなた自身の内にある最高のものをも崇拝すること。この二つは同じものである。なぜなら、あなたの内なる最高のものとは、すべてを支配し、あなたの人生の方向を決定づけるものなのだから。

------------
『臥牛先生遺教抄』(第39回)

 総て一つを握りて他をおしつくる事はなさぬものなり。たとい善き事にても一つを執りて他をおせば悪しき事になるものなり。戒むべし。
--------------

伯夷・叔齊、馬を叩へて諫む。

2017-10-16 17:38:44 | ブログ
第3213号 29.10.17(火)

武王紂を伐つ。伯夷・叔齊、馬を叩(ひか)へて諫(いさ)む。左右之を兵せんと欲す。太公曰く、此れ義人なり、と。扶(たす)けて之を去らしむ。武王已に殷の亂を平(たいら)げ、天下周を宗とす。而して、伯夷・叔齊之を恥ぢ、義、周の粟を食(くら)はず。首陽山に隠れ、薇を採りて之を食ひ、遂に餓ゑて死せり。『小学』(稽古第四)201

 周の武王は殷を攻めるために東に向かった。伯夷・叔齊の二人は、其の暴挙を悲しみ、武王の馬車をひきとめて諌めた。「父西伯死していくらも経ないうちに兵を出すとは、不幸ではないか。殷の臣下として君主たる紂を伐つのは不仁ではないか。暴をもって暴に易える叛逆を行なってはならない。」武王の左右の臣はこれを怒り、武器で打ち殺そうとしたが、軍師たる太公望呂尚は「義人である。殺してはならない」と言って、二人を馬前からつれ去った。
 武王が殷を平定すると、諸国は周を天下の支配者として認めたが、伯夷らは是認しなかった。二人はその支配下に生活することを恥じ、首陽山に隠れ、山中に自生する薇(ぜんまい)を採って食べていたが、ついに餓死したという。


 【コメント】歴史に名高い『史記』伯夷列伝の抜書きであります。『論語』には、旧悪を念わず。怨み、是れを用て希なり。(他人の過去の悪事を問わないものは、人からうらまれることも、めったにない。清廉潔白で一生をつらぬいた伯夷・叔齊のように)とあります。

 『論語』述而には、「伯夷・叔齊は何人ぞや。曰く、古の賢人なり、とあります。

 今朝のテレビで高速道路等での運転マナー不良によるトラブルが多発しているとの由、これらは何に起因しているのでしょうか。

 人間が自分本位になり、ゆとりある大きな精神を維持出来ないということなのでしょうか。特に大型車があおり運転をするなどということは信じられないことです。

 万一これらで死亡事故が発生すれば、交通事故ではなく、交通死亡事件として捜査をすべきだと思います。

 無謀運転をして事故になったら、人が怪我をします。治療費がいます、仕事が当分できなくなります、痛みもあります、相手に怪我をさせたら怨まれます、という具合に善い事は何ひとつありません。

 先のアメリカとの対戦で負けるとわかっていても、突き進んでいった愚かな軍部の真似をしたらいけません。そういった人間的欠陥を解消するためには『南洲翁遺訓』の学問が最高だと思います。

 そして各家庭では、子供を強く正しく逞しく育てて欲しいものです。先生に叱られた位で自殺なんかしてはいけません。ソマリアあたりの子供たちは雑草を食べてでも、生き抜こうとするのです。
 
 私は深夜の電報配達で枕崎の港外に停泊した大型船に伝馬船で櫓をこぎながら2キロ先の舟まで電報を持っていったものです。怖いという気持ちは全くありませんでした。

 天風師曰く、自分から死ぬと思わない限り、人間は死なないのだとは名言だと思います。

-------------------
『不動心』(第82回)

 魂を揺り動かす力
 外界のものごとは、わずかたりとも魂にふれることはできない。魂に近づく方法もなければ魂を揺り動かす力も持っていない。魂は自らの力で自らを揺り動かす。魂は自ら決めた判断の基準に従って、外部からのあらゆる体験を処理する。

-----------------
『臥牛先生遺教抄』(第38回)

 (おおむ)ね才気のある者は、弱きを助けて強きに反抗せんとの思い、出ずるものなり。是れよろしからず。弱きも強きもなきものにて、必ず正しきものを助くるものなり。
----------------