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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

聖は天を希ひ、賢は聖を希ひ、

2017-10-25 16:44:39 | ブログ
第3222号 29..10.26(木)

聖は天を希(ねが)ひ、賢は聖を希ひ、士は賢を希ふ。伊尹・顔淵は大賢なり。伊尹は其の君の堯・舜と為らざるを恥ぢ、一夫も其の所を得ざれば、市にうたるるが若し。顔淵は怒りを遷さず、過ちを貮(ふたた)びせず、三月仁に違はず。『近思録』57

 「聖人は天を理想とし、賢人は聖人を理想とし、士は賢人を理想とする。伊尹や顔淵は、立派な賢人である。伊尹は、自分の仕える君主が、堯・舜のような聖天子にならないことを恥じ、一平民でも生活が安定しなければ、市場で打たれるように思った。顔淵はやつあたりをせず、過ちを繰り返さず、三ケ月の間、仁から離れなかった。57

 【コメント】人の世をよくするために、自らを修めた人を理想として人生に処するということは大変よいことだと思います。

 賑やかな選挙が終わりましたが、議員諸氏に聖人・賢人・士と言われるひとがいるでしょうか。私は安倍さんは好きなのですが、今回の勝利を経て、「丁寧にわかりやすく説明して行く」と言っていますが、言葉そのものは丁寧ですが、中身は全く真逆だと思っています。
 
 丁寧にするのなら、何故夫人のアキエ氏を出さないのですか。何故国民の不信を買うようなことをするのですかと疑わざるを得なくなります。

 緑の党は昨日懇談会を開き、小池氏が代表を続投するとのことですが、敗因として渦巻いた不信はなくならないでしょう。余りに独善が過ぎます。もうこれで終りでしょう。大衆の沈黙を愚弄してはなりません。
 
 参謀として仕えた若狭氏が気の毒です。東京都民は都知事になって欲しいとして小池氏を応援したのです。それをあろうことか、私は何をしてもいいと思いあがってはなりません。
 
 小池氏に女ヒットラーだと山東昭子氏が命名したとか、今回、そのように思った人が増えたことでしょう。安倍一強に対峙すると高言していますが、寄り合い所帯で出来る筈がありません。

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「西郷南洲の政治思想について」---第7回

 中には國を以て斃るる等の事を言ふのは国民を軽躁にして甚だ危険であると考へる人も少なくない。これも一応考えざるを得ないが、生を欲するは常情で、しかも最も強烈な本能であるから、国家生活に於いても兎角事無かれ主義に陥り易いのを見ても、その心配は余り無いと云はねばならぬ。寧ろ今は余りに苟安を欲する俗情が強すぎる。その為に国家生活が一体に卑屈に流れ、他の「軽侮を招き、好親却って破れ」何かに「彼の制」を受けて居ることは対露外交や対英米政策を観るにつけて痛切に感ぜられるではないか。翁又喝破して曰ふ、
 国の凌辱せらるるに當りては、仮令國を以て斃るる共正道を踏み義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府にては非ざる也。242

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『不動心』(第89回)

 自分の力量を知るということ

 じきにあなたは灰と骨だけになる。残るのは名前だけだ。いや、名前すら忘れ去られてしまう。感覚でとらえられるものは、みな変わりやすく一瞬のうちに滅びる。人間の感覚器官は鈍く、簡単に欺かれてしまう。魂も、血液から立ち昇る蒸気のようなものでしかない。これでは、世間の賞讃を受けても甲斐のないことだ。では、どうしたらいいのか。死が消滅であれ移行であれ、その訪れのときを勇敢に待つのだ。では、その間に何をしておけばいいのか。神神を敬い祝福したまえ。また、人には善行を施し、彼等のやることいっさいを耐え忍ぶのだ。そして、あなたの憐れな肉体と息が届かぬところにあるものはあなたのものではなく、その力も及ばないということを肝に銘じておくことだ。

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『臥牛先生遺教抄』(第47回)

 人を観るは尤も大切なるものにて、若しも観誤るに於いては申訳なき事なれば、きっとその人に対して罪を謝す心掛けなくては済まぬなり。現在の人を観るに、善悪観誤りなば忽ち事の上にも響きの出来る故、人も自然と慎むべき筈なれども、古人を観るにも同様にて、誤り観るに於ては平伏してきっと罪を謝せんと心得居る程ならでは、古人を知り得られるものなり。
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忠信は徳に進む所以にして、

2017-10-24 17:37:41 | ブログ
第3221号 29.10.25(水)

忠信は徳に進む所以にして、終日乾乾たり。君子は當に終日天に在るものに対すべし。蓋し上天の載(こと)は、聲も無く臭いも無し。其の體は則ち之を道ち謂ひ、其の理は則ち之を道と謂ひ、其の用は則ち之を神と謂ふ。其の人に命ずるときは則ち之を性と謂ひ、性に率ふときは則ち之を道ち謂ひ、道を修むるときは則ち之を教えと謂ふ。孟子は其の中に去きて、又浩然の気を発揮し出す。盡せりと謂ふ可し。『近思録』23

忠信は徳に進む道で、君子は日ねもすそれに努力する。君子は天にいるものに従い、日ねもす敬虔な心を持つべきである。というのは、上天のすることは、音も立てず、臭いもさせない人の感覚で捉えられないからである。天にあるものは、姿からは易といい、すじあいからは道といい、はたらきからは神という。また、人に命じ与える点からは性、性にすなおに従う点からは道、道を修める点からは教えという。孟子はそれらの中に入っていって、別に浩然の気をはっきりさせた。これ以上のものはないといえよう。24

 【コメント】徳に進む場合は、まごころが大切であり、そのためには何事にも努め励むさまが大事であります。なお易の乾卦の辞に「君子は終日乾乾たり」ともあります。文言伝には「君子は徳に進み業を修む。忠信は徳に進む所以なり。」と説いています。

 浩然の気について、「この氣は至大至剛で、正しく養えば天地の間に充満する。義と道との合力が大切で、それがないと、一身にも充満しない。道義によって養えば、一身にある気が天下に充満する、ということですが、本当のような気がします。


 話は全く変わりますが、今回の衆議院の選挙で、希望の党は全く氣(風)が充満しませんでした。これは党首の小池氏の動向が道義に反したと捉えている都民が多く存在したともとれるでしょう。

 先の都知事の選挙は自民党の悪玉ドンがいたこともあり、どうにかして欲しいとの天の声でもありました。小池氏はそれらの運用・活用を自分に都合のいいように解釈した結果、通常、大衆は愚・無知といはれる風潮を大衆の聡明へと変化ささせたという人がいますが、本当なのかも知れません。
 とにかく善意で応援した人々を邪な性で愚弄するようなことがあってはならないのです。今回の後遺症は長く続きます。謙虚、控え目こそが解決への道筋なのです。

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「西郷南洲の政治思想について」---第6回

 命有っての物種といふ俗情よりすれば、國を以て斃れるといふ様なことはとんでもない客気の論とも思はれよう。勿論如何なる場合でも犬死はあさましい事であるが、さりとて恥多き残存も真の生活ではない。場合に依っては辱を忍んでも生き存へねばならぬが、又一命を棄てて不朽に生きる場合もある。しかし、いつでも死ねるだけの----永遠の今に生きる覚悟が無ければ真の忍辱はあり得ないことを考えると、国家生活に於いても、國を以て斃るる覚悟の如何に重大なる意義があるかを感悟せざるを得まい。241
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『不動心』(第88回)

 なんびとにも優しい言葉と正しい行動を

 両親や兄弟、妻や子供に対し、先生や家庭教師に対し、友人や親戚、明使に対し、あなたはこれまでどのようにふるまってきたか。「なんびとにも優しき言葉と正しき行動を」とホメロスは『オデッセイア』で歌っているが、あなたの対人関係は現在まで、
この詩にふさわしいものであっただろうか。

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『臥牛先生遺教抄』(第46回)

 人を知るは志ある者の第一の心掛くべき事なり。千載の下に居て千載の上の人を見誤りても申し訳なし。況んや今の人を見誤らば国家の存亡にも関すべし。皋陶も「人を知るに在り」と最初に言われしは、人を知るは安民の始めなればなり。天下の人を知るにあらずは廟堂に立たれまじ。人を知るは古人も難しとする所、孔子も「人を知らざるを患う」と仰せらる。されば深く心を注ぐにあらざれば人は知られまじ。予東都に在りし時、足達を始め同行者数名相会せし事あり。予職務のため遅参せり。十振り余の刀、銘を覆うて示さる。その頃は客氣も強かりしかば一々指名せしに、十中七八本までは違わざりき。心竊かに自負せり。その後足達を訪いし時、必定ほめらるべしと思いの外、足達色を易えて、刀剣の鑑定はさようのものにあらずと言う。然らば如何心得べきやと問いしに、そもそも良工の刀剣を鍛錬するや、思いを凝らし精をはげまし、斎戒沐浴して神仏に祈願し作れるものなれば、之を鑑定するも亦そこに着目するは尤も肝要とする所なり。されば研ぎをなすにもその精神を磨き顕し、作者の遺憾なからんよう常に心をここに注げり。さもなくして只作者の名を的中せりとて、良工の喜ぶべきかはと教えらる。至極なる戒めと感じ、人を知るもこの心を推し及ぼしたく心掛くるなり。是れ人を見る眼目なり。
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乾は天なり。

2017-10-24 10:29:23 | ブログ
第3220号 29.10.24(火)

乾は天なり。天とは乾の形態にして、乾とは天の性情なり。乾は健なり。健にして息(や)む無きを之れ乾と謂ふ。夫れ天は、専ら之を言へば則ち道なり。天すら且つ違(たが)はずとは、是なり。分ちて之を言へば、則ち形體を以て之を天と謂ひ、主宰を以て之を帝と謂ひ、功用を以て之を鬼神と謂ひ、妙用を以て之を神と謂ひ、性情を以て之を乾と謂ふ。『近思録』(一道体)10

 〔通釈〕乾とは天である。天は乾の形体であり、乾は天の性格である。乾は健である。健全で停滞しないのを乾という。そもそも、天は総合的にいうと道である。天でさえ背かないというのがそれである。天を分けていうと、形体からは天といい、支配からは帝といい、効果からは鬼神といい、すぐれたはたらきからは神といい、性格からは乾という。10

 【コメント】説卦伝に「乾は天なり。故に父と称す。坤は地なり。故に母と称す。」とある。乾を天とする理由について、「乾は万物の始めなので、天となる。」といっている。天もまた最高位に位するものとして、万物の始めと見られているのである。
 もとは同じものでありながら、その見る方面によってそれぞれに名称が違う。これを逆にすると、天とか帝とか鬼神とかいわれるものは、すべて天に統合されるということである。事事物物それぞれの存在を認めながら、それを一つに纏めていく傾向が、この言葉のうちに見える、とあります。
 
 通釈の解説は素晴らしいと思います。とにかく健全で停滞しないように事を進めたいものです。
 私は関係者に、やりだしたら辞めないことにしょうと呼びかけています。

 賑やかだった選挙が終わり、それぞれの戦いが総括されています。願うことは遠い将来において、国家の損失につながることにならないよう心して取り組んで貰いたいものです。
 
 緑の党のオバサマは今退くと無責任だと思われると言っていますが、ここは潔く退くべきだと思います。若狭さんが、次の次といっように、それまで慎重に事を進めるべきであったと思います。

 先程、庄交トラベル様へ来月荘内行きへの航空券等々代をお振込してきました。

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安岡正篤著『日本精神の研究』---「西郷南洲の政治思想について---第5回」

 吉田松陰はその松下村塾記に、
 抑々人の最も重んずる所は君臣の義なり。國の最も大とする所は華夷の弁なり。
と説いて居るが華夷の弁とはとりもなほさず文明野蛮の別に外ならない。中華とは敢て支那の独占すべき称呼ではない。山鹿素行も例へば其の中朝事実の序文に我国を中華と力称して居る。随って苟も文明国たるものは苟安を事とするを恥づる。言うまでもなく、苟安を事とするは単なる生存を謀ること----無理想----迷執の生活を意味するからである。南洲は説いている。
 正道を踏み國を以て斃るるの精神なくば外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意 に従順する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受るに至らん。241

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『不動心』(第87回)

 すべてはそれぞれに正当な分け前を与えられる

 万物の精神は社会的なものである。あらゆる分野でその精神は、高貴なものに奉仕させることを目的として卑しいものを創り出し、高貴なものをたがいに依存できるよう結びつけた。あるものは従属させられ、あるものは結びつけられ、そしてすべてはそれぞれに正当な分け前を与えられる----しかもその中で最も卓越したものは相互に調和するよう結ばれている。

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『臥牛先生遺教抄』(第45回)

 志立たざれば経書も用を為さず、志立てば小説と雖も益をなすものなり。故に学ぶ者は、志を立つる事専一なりと。
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喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。

2017-10-22 16:56:12 | ブログ
第3219号 29.10.23(月)

伊川先生曰く、喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。中とは、寂然として動かざる者を言ふ。故に天下の大本と曰ふ。発して皆節に中(あた)る、之を和と謂ふ。和とは、感じて遂に通る者を言ふ。故に天下の達道と曰ふ。『近思録』8

 伊川先生がおっしゃった。「喜怒哀楽といった感情がまだ現れていないとき、それを中という。中とは、ひっそりとして動かないものをいう。それで天下の大根本というのである。外に現れて喜怒哀楽の感情がすべてほどよい状態になると、それを和という。和とは、心が物に感じてそのまま天下の事に通じることをいう。それで天下のものがすべて由る道というのである。」

 【コメント】達道とはどこへ持って行っても通じる道のことをいうとありますが、達道の精神を極めたいと思います。

 選挙の投票が終了しました。当選された方々おめでとうございます。これからの政策を将来にわたり国民のためになるような施策をして欲しいものです。あれもしてあげる、これもしてあげると、ただ甘やかすだけではダメなのです。

 私が電電に入社したころは、今にも日本が共和国になるのだという先輩もいたものです。仕事は大概にして労働運動だけが先行していました。仕事は大概にして要求は一人前にせよという思想は国家の頽廃・衰弱につながるのです。

 そういう運動をしていた三公社は国民の叱責を得て民営化したのでした。人間は学びと働くために生れてきているのです。

 小池さん率いる希望の党は伸び悩みました。これは小池氏本人がいう通り、傲りが生じ国民の厳しい審判につなかったものと思われます。
 文芸春秋には政権をとりに行くと書いていますが、土台の基礎固めもしないで、思い上がったことをいうのではありません。
 今回の敗北は「ただ負けた」ということではなく、国家の将来に暗雲を漂わせたと私は思っています。その答えは30年後に現れるのです。

 今日の青少年問題は、戦後まやかしの隆盛を見た社会党などの政策の悪さがもたらしたものなのです。それにしても前原氏と語り合った合意は国のためになりませんでした。

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『西郷南洲の政治思想について---第4回』

 故にある国家が文明であるとは、少くとも其の国家が国家としての単なる生存以上の存在であること、即ち徒に富国強兵を能事とするものではなく、更に高邁な理想下に生活しつつあるものであるといふこと、及び利己的侵略的国家に非ずして、自己の努力実現しつつある道の精華を以て他国を光被し、天地の化育を賛(たすけ)けようとする使命の下に活動しつつあるものであるといふ一大特質を有せねばならぬ。今の文明はかういふ理想眼から省(み)ればまだ野蛮なものであること眞に南洲喝破の通りである。240
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『不動心』(第86回)

 「欲望」の処し方

 あなたの魂に潜む崇高な支配者であるところのものを、苦痛にせよ、快楽にせよ、肉体にまつわる感情によって動揺させてはならない。魂を支配する者を欲情にまきこませぬよう、その働きを制限すると同時に、欲情をも分相応のところに閉じ込めておくべきだ。ただし一個の身体に浸み渡っていくような交感作用によって感情が精神にまで及んだとしたら、それを無理に避ける必要はない。だがその場合でも、あなたを支配する理性に、その欲情の善悪を判断させるりは差し控えるべきた。

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『臥牛先生遺教抄』(第44回)

 予小鳥を飼いて生餌雑魚の串を削りながら仁の悟りたり。予雑魚は大好きなり。然るに小鳥一羽も殺してならぬとの心入り強ければ、自分の口をも忘れて小鳥に与うるなり。然らば上に立つ者人民一人たりとも餓死させては済まぬとの心掛けあれば、色々の方法従って出すべきなり。学問するもその理にて、是非聖賢にならずは済まぬとの心掛けあれば、自然に何事も分別出来得るなり。その心掛けを次にしては、何程人に問い求むるも詮のなきものなり。仁も心掛くれば行わるるなり。然れども容易のものにあらずと見え、孔子にも仁に至りては、たやすく人に許し給わぬなり。
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誠は為す無し。機に善悪あり。

2017-10-21 15:32:24 | ブログ
第3218号 29.10.22(日)

誠は為す無し。機に善悪あり。徳は、愛を仁と曰ひ、宜しきを義と曰い、理を禮と曰い、通るを智と曰ひ、守るを信と曰ふ。焉(これ)を性とし焉に安んずるを聖と謂ひ、焉に復り焉を執るを之れ賢と謂ふ。発すること微かにして見る可からざる、充つること周(あまね)くして窮む可からざるを之れ神と謂ふ。『近思録』(一道体)7

 誠には行為がなく、そのかすかな動きに善意がある。徳は、いつくしむことを仁といい、事のよろしきにかなうことを義といい、事のすじみちを礼といい、事物の道理に通じることを智、道を守って違わぬことを信という。仁・義・礼・智・信の徳を性として心にもともと備わるものとし、それに安んじる人を聖といい、徳の本来の姿に戻り、それを失わぬようにしっかり抑えておく人を賢という。発現のしかたが微妙で見ることができず、すみずみまで拡がって涯の窮められないものを神という。7

 【コメント】誠は元来偽りがないといった一般的な意味であるが、ある原理的なものの性格を表す意味に転化し、さらに概念化して扱うようになっている。朱子が「誠無偽」の一句に「実理は自然であって、行為などない。即ち太極である」と註釈を加えたのがそれである、とあります。

 解説にある仁・義・礼・智・信の教えは大変いいと思います。これは長い人生に処する上において活用性の巾、大なるものがあるといっていいでしょう。

 この所、車の運転で暴走行為をしている人々もこういう解説にふれたら、幾らか怒った気が落ち着きやすまるのではないでしょうか。とにかく怒り狂っただけ損をするのですが、人々はそれが理解できないようです。

 昨晩は台風前夜にも拘わらず、子供たちは空手道教室に参集してくださり賑々しき御稽古を致しました。新入会員の2年生・荻迫栄笑君が最初泣き出しそうになりましたが、拳はきれいに握れたので褒めてあげたら、先輩たちと一緒に動いてくれました。

 とにかく強く正しく聡明に育てなければならないのです。そして空手道の三要素を説明しました。1.スピード、2.美しさ、3.威力、この三つが伴わなければならないのです。たまたま日本舞踊を始め、いろいろ御稽古事をしてきたからこそ言えることなのです。

 今日は第48回衆議院選挙日です。さてどういう人々が喜びを分かち合えることでしょう。思うに今日の青少年非行の原因は、戦後の革新勢力の平和・安全教育スローガンのもと、子供を甘やかせてきたのが原因なのです。

 私が電電に入社した当時、新入社員の私が局長、課長に懇ろに挨拶する姿に、労働組合委員長が局長たちを指して、あれらも普通の人間なのだから、特別に挨拶をしなくてもいいんだ、と言われたものです。

 私は自分で働いて、夜間高校に行き、父の事業倒産の借金返済のため人様の二倍三倍働いてきましたので、労働組合委員長の指導は間違いだと思って文武両道に精進してきたのでした。

 全国の労働団体が推奨する教えは日本の國にそぐわないということで、次々に民営化されてきたのでした。所謂トインビー博士がいう国家の崩壊。消滅につながることだったのです。

 以前も書きましたが、戦争に負けて國が崩壊した例はないということです。国民が怠けて仕事をしなくなり、社会秩序がなくなったとき、国家は崩壊するということは本当だと思います。

 だから如何なる仕打ちに会おうとも、ぐっと我慢して生き抜かなければならないのです。今回の選挙で立憲民主党が大きくのびることはいいことですが、負の遺産が増え、半世紀後とりかえしのつかないようになったら取り返しがつかないのです。そういうことは、目の前のことですから、枝野氏らはわからないのです。

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安岡正篤著『日本精神の研究』----政道の要諦---西郷南洲の政治思想について--第3回

 道とは何の謂であるか。即ち天地生成化育のはたらきである。人も道に由って生きる。天地の道に由って父母を得、己生きることを知り、人を愛することを覚え、天を敬する様になる。言い換へれば肉体的生活より之を葆(つつ)む精神的生活へ、個人的生活より超個人的生活へ発展する。人間の国家生活はすでに原人時代から考えて大いなる道の発展である。その国家的生活に於いて、国民が単なる経済的利己的生活に止まらずして、一層高く大いなる価値的生活に進んで居れば居る程文明と謂はれるのである。
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『不動心』(第85回)

 天を相手に行動すること

 誰かが私に悪事を働いているとでも言うのか。かまわないから好きなようにさせておくがいい。ただ私は万物が差し出すものを受け取り、その命じるがままに行動するだけだ。
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『臥牛先生遺教抄』(第43回)

 学問は先ず仁徳に心掛くべし。近く譬えを取るに、総て隣家は近き故却って種々の事より仲悪しくなる事あり。その悪しき隣家にて若しも不幸又は不都合の事あらんには、甚だ気の毒に思うは仁の心なり。是れに反してその禍を喜ぶというは不仁なり。仁の心なき者は決して学び得られぬものなり。次に義なり。一旦人の事を引き受けたる上は必死に心力を尽くすは義なり。又師に教えを受くるに「不敏と雖も請う斯の語を事とせん」という心入り肝要なり。予め心得置くべきなり。
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