味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君を堯舜の上に致し、再び風俗をして淳ならしめん。

2017-02-02 09:39:39 | ブログ
第2956号 29.02.02(木)
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君を堯舜の上に致し、再び風俗をして淳ならしめん。『古文真宝』
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 官途についたならば、わが仕える君を堯舜のような聖王たらしめ、世相人情を厚くしたい。(杜子美「韋左丞に贈る」)539
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 【コメント】昨日は鹿児島史談会講演会での写真を事務局長様がお持ちくださいました。『南洲翁遺訓』等を発表するまでの準備も大変でしたが、どれだけ出来るかわかりませんが、要は誠心誠意事に臨むことだと思います。
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 写真がクローズアップしているのは、五歳児・正田佳那子様でした。そして空手の舞を演じた中島嬢であります。当日の記録・写真を入院中の伊牟田会長にお見せしたらお喜びになられたとのことです。
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 今、世界中はトランプ様の出現によって大変賑やかです。四季が変化するように、世は移り行くわけですから、どういう事態になっても、「君を堯舜の上に致し」とあるように『南洲翁遺訓』をその位置に置き、静かに粘り強く、学び続けたいものだと思います。
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 一時的パフォーマンスに酔いしれるようなことがあってはならないと思います。私が『南洲翁遺訓』を初めて手にしたのが50年前のことです。27歳の時家内と結婚した時、岳父から戴いたのでした。
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 岳父は当時の文学集を全部読んだという自称学者でした。岳父が町内会長をしている時、南洲神社で行われていた『南洲翁遺訓』の勉強会の責任者平井政明先生が、枕崎に講演にきてくれたのでした。
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 その平井先生に岳父が御礼状を出したのです。その手紙を見た平井先生が、岳父・小川末芳に「あなたが先生です」と返信を出したのです。その書簡が私の手元に現存しています。その時、南洲神社発行の『南洲翁遺訓』を多量戴き、その一冊を私が頂戴した訳でした。
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 『南洲翁遺訓』を戴いたといっても、何がなんだかチンプンカンプンでわかりませんでした。その後鹿児島電気通信部へ転勤になり、南洲神社の勉強会に通い出したというわけてす。それから40年が経過しました。
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 私は荘内の先生方と『南洲翁遺訓』を堯舜と位置づけていますので、只管学び続けています。その姿を小野寺先生はヨシとしてくれたのだと理解しています。
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 それから私の空手道大会では『南洲翁遺訓』の発表競技もしたものです。その時、西郷隆盛を書きつづけていた鮫島志芽太先生、そして西郷南洲顕彰館長・児玉正志先生も来賓としておいでになり、祝辞を戴いたのでした。
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 その時両先生方は、貴方のやり方で進んでくださいと私を激励してくれたのでした。そういう私に、俺の言うとおりにせよといって案内をくれる人がいますが、私の参考になるものは何一つありません。
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 先の史談会講演会を見学してくださった福園先生が、私が思ったとおりの感想をお寄せくださったのです。ですから、私のやり方と異なる人々・団体とは座を共にしないことにしているのです。
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 そうでないと折角の『南洲翁遺訓』に傷がつくことになるという円心会の関係者もいるのです。
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 あと17日したら荘内の先生方がお見えになります。その準備で大忙しという所でございます。

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『教養のすすめ』「無我のなかで達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第3回)
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 昭和十五年に大機道人という人が書いた『禅眼に映じた南洲翁』(非売品、発行者 井上義男)という本があります。大機、桂樹亮仙という人は一生雲水で過ごした、大正、昭和を通じて知る人ぞ知る禅の達人の由です。(この本が荘内南洲会の書庫にはないのですか。高木先生お調べくださいませんか。)
 そのなかに、「緒家の評」という一章があります。まずは板垣退助です。

「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべるが、そんなものではない。西郷と木戸、大久保との間には、零が幾つあるかわからぬ、木戸や大久保とはまるで算盤の桁が違う」(このくだりは、頭山満氏の著書にも同様に書いています。)

 板垣という人は、病的といってよいくらい正直、潔癖な人です。

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『臥牛菅実秀』(第489回)
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 赤沢経言は『臥牛先生行状』の中に、つぎのように書いた。
   
  当時の顕官、朋党し、陰険奸謀を用い、巧みに世人を欺罔して、暫しは迷わせしも、南洲翁遺訓の発表せしより、続いて西南記伝等に 
  て、其の邪術を逞うし薩摩隼人を激動せしめし事跡、其の証を挙げて、歴々、発掘せしかば、今は人皆の知るところとなりてける。
  
 そして『正邪、今那んぞ定まらん、後世、必ず清を知らん』という西郷隆盛の詩を挙げて、今回の遺訓の刊行が『後世、必ず清を知らん』といった、その『清を知る』大きな機縁となった感慨を言外に述べているのである。


   ※欺罔。あざむき、しいること。
   ※※西南記伝。黒竜会の編纂によって、明治四十一~四十四年にかけて刊行された西南戦争史。

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