第2962号 29.02.08(水)
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道の明らかならざるは、異端之れを害するなり。『小学』
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真の道徳が世に明らかにならないのは、聖人の道と異なるまちがった異端の説がこれを害しているからだ。313
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【コメント】実社会では総ての人が勤勉で真摯なる日々を送っているとは言い難いと思います。でも、躾とか、教育によっても幾らかは良くなると思うのです。
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今日の日本の状況は、半世紀以上にわたり、躾教育等が行われず、平和教育という思想が蔓延し、人々はしたい放題傍若無人の限りを尽くしてきたという人もいます。
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<聖人の道と異なるまちがった異端の説>とまでは行かなくても、生きるに際して、人様と共存していく社会性は身につけたいものだと思います。そのために私は『南洲翁遺訓』の普及に精出しているのです。
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そのお手本が西郷南洲翁と菅臥牛翁だと思います。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」第9回
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この無心無我、自他平等の境地が、江戸城明け渡しにつながります。
近代日本の命運を救ったのは、実にこの江戸城明け渡しだったといって過言ではありません。勝海舟は、西郷との話し合いに平和的解決を期待する一方、万一それに成功せず、官軍が攻め込んできた場合は火を放って官軍を焼き討ちにする計画ももっていました。いずれにしても、日本は国を二分する戦争になるかどうかの瀬戸際でした。頁36
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ここで漢詩等のご紹介を致します。実は、西郷隆盛を生涯に亘って書きつづけた鮫島志芽太先生にお送りしたものです。
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人間・鮫島志芽太翁
和歌
日本に聖き精神の人ありき
その名鮫島志芽太翁
今様
至誠あふるる南洲を
生涯かけて人に説く
文行忠信無為の徳
これぞ誠の君子道
漢詩
敬天一筋 意(こころ)悠然たり、
文質彬彬 亀鶴の年。
日本精神の 頽廃を歎き、
南洲の訓誡 世人に傳う。
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この作品の創作は20年位前のことです。鮫島先生が、病床に臥せっていた時、お持ち致しました。鮫島先生に対して、おまんさぁが(貴方の)本はいいですね、という人はたくさんいました。でも人物を称賛したのは、私だけであったと思っています。その後、鮫島先生から、「味園博之大先生」と書いたお手紙を頂戴したものです。余程嬉しかったのでしょう。
私が主催する空手道大会にもおいでくださり、来賓の祝辞も賜りました。
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『臥牛菅実秀』(第495回)
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明治十一年に副島は帰国し、翌十二年から明治天皇の侍講に任命されて、帝王の学としての中国の古典を進講し、十九年の機構改革のときまでの八年間、天皇の師として、帝徳の達成を期し奉った。
これは副島の侍講時代のことであるが、フランス艦隊が、清国の福建を攻撃し、南洋水師を破ったという報告を受けた外務卿井上馨は驚いて、このことを明治天皇に奏上し、その帰りに副島のところに立寄って、大真面目にいった。
「支那はもう亡びようとしている。貴殿は侍講として専ら支那のことを申し上げているそうだが、今後は、そんな古臭いことはやめてもらいたい。日本は支那なんかの真似はしてならぬのだ。」
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道の明らかならざるは、異端之れを害するなり。『小学』
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真の道徳が世に明らかにならないのは、聖人の道と異なるまちがった異端の説がこれを害しているからだ。313
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【コメント】実社会では総ての人が勤勉で真摯なる日々を送っているとは言い難いと思います。でも、躾とか、教育によっても幾らかは良くなると思うのです。
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今日の日本の状況は、半世紀以上にわたり、躾教育等が行われず、平和教育という思想が蔓延し、人々はしたい放題傍若無人の限りを尽くしてきたという人もいます。
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<聖人の道と異なるまちがった異端の説>とまでは行かなくても、生きるに際して、人様と共存していく社会性は身につけたいものだと思います。そのために私は『南洲翁遺訓』の普及に精出しているのです。
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そのお手本が西郷南洲翁と菅臥牛翁だと思います。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」第9回
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この無心無我、自他平等の境地が、江戸城明け渡しにつながります。
近代日本の命運を救ったのは、実にこの江戸城明け渡しだったといって過言ではありません。勝海舟は、西郷との話し合いに平和的解決を期待する一方、万一それに成功せず、官軍が攻め込んできた場合は火を放って官軍を焼き討ちにする計画ももっていました。いずれにしても、日本は国を二分する戦争になるかどうかの瀬戸際でした。頁36
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ここで漢詩等のご紹介を致します。実は、西郷隆盛を生涯に亘って書きつづけた鮫島志芽太先生にお送りしたものです。
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人間・鮫島志芽太翁
和歌
日本に聖き精神の人ありき
その名鮫島志芽太翁
今様
至誠あふるる南洲を
生涯かけて人に説く
文行忠信無為の徳
これぞ誠の君子道
漢詩
敬天一筋 意(こころ)悠然たり、
文質彬彬 亀鶴の年。
日本精神の 頽廃を歎き、
南洲の訓誡 世人に傳う。
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この作品の創作は20年位前のことです。鮫島先生が、病床に臥せっていた時、お持ち致しました。鮫島先生に対して、おまんさぁが(貴方の)本はいいですね、という人はたくさんいました。でも人物を称賛したのは、私だけであったと思っています。その後、鮫島先生から、「味園博之大先生」と書いたお手紙を頂戴したものです。余程嬉しかったのでしょう。
私が主催する空手道大会にもおいでくださり、来賓の祝辞も賜りました。
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『臥牛菅実秀』(第495回)
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明治十一年に副島は帰国し、翌十二年から明治天皇の侍講に任命されて、帝王の学としての中国の古典を進講し、十九年の機構改革のときまでの八年間、天皇の師として、帝徳の達成を期し奉った。
これは副島の侍講時代のことであるが、フランス艦隊が、清国の福建を攻撃し、南洋水師を破ったという報告を受けた外務卿井上馨は驚いて、このことを明治天皇に奏上し、その帰りに副島のところに立寄って、大真面目にいった。
「支那はもう亡びようとしている。貴殿は侍講として専ら支那のことを申し上げているそうだが、今後は、そんな古臭いことはやめてもらいたい。日本は支那なんかの真似はしてならぬのだ。」
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