味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

人皆人に忍びざるの心あり。

2016-04-29 10:46:07 | ブログ
第2677号 28.04.29(金)2677
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人皆人に忍びざるの心あり。『孟子』
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 人間には、だれしも、見るにしのびない、するにしのびない、という思いやりの心がある。この忠恕の心が治国の根本である。103
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 【コメント】〈忠恕の心〉は治国だけでなく、団体の要にある人のあるべき姿として訓戒しているのです。とにかく人様を思いやることは大事だと思います。私は自分のことより、身内のことより人様をという主義です。そして共に健康で、長生きをして欲しいと念じています。
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 昨夜の第二道場の御稽古は大変賑わいました。新しく入会した福元恵士くんもお父上様とおいでくださいました。礼儀正しい素晴らしいお父上様でした。恵士くんがいい筈だと思うことでした。
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 恵士くんは初心者とは思えないハッスルぶりでした。全体で『南洲翁遺訓』を発表する時は、カナコサマを前に坐らせ、一対六人で『南洲翁遺訓』第一章を発表して貰いました。
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 前に出たカナコサマは負けてなるものかという意気ごみで大声で発表してくださいました。恵士くんのお父上さまは初めて見て、吃驚されたことと思います。
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 終盤に一人ずつ型演武をして貰いました。みな上手くなってきました。新入会者の恵士くんとカナコさまの突きの対決をして貰い、どちらの声が大きいか、競わせました。二人共物凄くハッスルして全員の審判は引分でした。
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 私の所で修行していた子供がラサール中学校に合格したとお聞きしました。多分、『南洲翁遺訓』等々の発表による脳の異常開発であろうと思っています。ところがこの子供の母上様は、同じクラスの母親様が挨拶をしてもシランプリをするのだと伺ったことがあります。こういう態度が子供の成長にどう関わってくるか、眺めていたいと思っています。
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 ここで大事なことは、有名校への合格にしても、スポーツの優勝にしても、今初めた一年生であるということです。これが最終局面ではないのです。
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 ですから、決して思い上がることなく、謙虚に謙虚に、控え目に、どっしりとした自分を構築して行くことが肝要なのです。思い上がったら、バドミントン選手が会社を解雇された二の舞になりかねません。
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 そこでお手本になるのが荘内南洲会の理事長・水野先生を中心とした先生方のお姿なのです。

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『臥牛菅実秀』(第213回)
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 また一方では、さきの献金問題にからんで実秀の身辺に黒い噂が流れていた。それは実秀が、藩と政府の中間にあって献金を私にしたとか、政府は献金の残額を切りすてたのと同時に、すでに献納した分も返却したのを懐にしてしまつたという噂であった。一部の不平分子は実秀の動かすことのできない巨巖のような実力と声望を中傷するために、のちのちまでにこれを材料として噂をまきちらしたのであるが、それに対して実秀は『犬の遠吼え』と聞き流していた。
 実秀にとって自分に対するいろんな中傷も、また賞讃も無関係にことであった。その目はもっと先きのものをにらみすえていたのであって『毀誉は人に任す』であった。134

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『農士道』(第489回)
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 これは義か、利か。
 是れ茄子といふ生産物に対する当然盡すべき義を盡したに過ぎぬのである。少しく手を廻して探せば七銭で送り得る道があるに拘わらず、不用意の結果四十銭で送ったといふことは単なる不利に止る問題ではなくして、實に生産物に対する不親切、不孝、不忠実といふ「義」を完うし得ざりし不義の結果の罪なのである。四十銭の金をかけて送ったものを七銭で送り得るようにしたということは、生産物に対する当然の義を盡したに過ぎないものである。而して従来の社会機構が農業といふ仕事に対して、余りにも非合理的不利を與へてゐるとするならば、敢然起って之を改むることも亦当然の義を盡すものなのである。之等の事を考ふれば、義利の本末関係は、おのづと解し得られることと思ふ。

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『征韓論政変の真相』をご恵贈賜りました。
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 「西郷南洲顕彰会の伝統及び西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会」の最高顧問である伊牟田先生から、上のご著書をご贈呈賜りました。一部ご紹介致します。
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〈-----史伝作家の海音寺潮五郎は、「----明治六年に二人の友情は破れますが、破れるべきものはずっと大久保の内部にあったと、私は見ています。」と述べている。「----そして大久保は計画的に西郷を政府から追い出した」と。
 そして明治四年十一月、岩倉遣外使節団は出発に当たり、西郷留守内閣に人事、組織、制度など改革をやらないようにと約定したが、西郷留守内閣が大改革をやったことに、大久保が難詰したことにあったに違いないとされ、次のように述べられている。
 「西郷内閣が、足掛け三年、混乱し、苦悶している国民を前にして行った大改革に、西郷が大久保から受けたのは感謝ではなくして、反感であり、憎悪であり、憤激非難の声であった。
----明治十年九月二十四日の城山における西郷の痛ましき自決も、その翌年五月十四日の紀尾井町における大久保の遭難も、この時をもって決定せられたのであった」と。〉
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 ここで私見をひとつ。
 紀尾井町の事件は、人一倍の皇国の英雄であった西郷隆盛と大久保との感情の行き違いが原因なのでしょうか。

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