第3782号 01.05.26(日)
太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、古より帝王、多くは情に任せて喜怒し、喜べば則ち濫に功無きを賞し、怒れば則ち濫りに罪無きを殺す。是を以て天下の喪亂、此に由らざるば莫し。朕、今、夙夜(しゅくや)未だ嘗て此を以て心と為さずんばあらず。恆に公等の情を盡くして極諫せんことを欲す。公等も亦須く人の諫語を受くべし。豈に人の言の己の意に同じからざるを以て、便即ち短を護りて納れざるを得んや。若し人の諌を受くる能はずんば、安んぞ能く人を諌めんや、と。『貞観政要』151
太宗が房玄齢等に語って言われた、「古来の帝王の多くは、自分の感情のままに喜んだり怒ったりし、喜べば、やたらに功績のない者に褒美をやり、怒れば、やたらに罪のない者を殺してしまう。それだから、天下の死喪や禍乱というものは、こういう帝王の無反省な行動に原因しないものはない。我は、今、朝早くから夜おそくまで、この問題について心にかけないことはなかった。だから、いつも公等の真心を尽くして遠慮なく徹底的に我を諌めてくれることを希望している。そして、公等もまた、ぜひとも他人の諌めのことばを受け納れねばならない。どうして、他人の言が自分の意見と同じでないからといって、そのまま自分の短所をかばいまもり、他人の言を受け納れないことができようか。もし、人の諌めを受けることができなければ、どうして、人を諌めることができようぞ」と。
【コメント】人を諌める時は、相手の気持ちも斟酌して意見提起をしたいものです。人から諌められても、謙虚に冷静に受け止め矯正すべきは正したいものです。
昨日はタイへ行き電話による詐欺行為をした人々が、集団で日本へ移送されまたが、何故非違行為に手を染めるのでしょう。真面な人間なら、短絡的に悪に手を染めたりはしないのです。
何がいいと言って学問の道が最高の喜びを味わえると思いますので一考を要して欲しいものです。昨日は、安岡正篤師の『儒教と老荘』の一部をご紹介しましたが、その教えの素晴らしさに唸っています。
テレビドラマ等を見るより漢籍の世界を逍遥した方が宜しいかと思います。私の本棚は安岡師の本で埋まっています。
昨日の空手道教室も賑わいました。何時ものとおり終盤に組手技術向上に向けての訓練をしました。子供たちの蹴り技の威力が強くなってきているので頼もしい限りです。
子供たちの突きを受ける対象は山田師範、前田師範と私の三名で対応しました。私も前田師範も80歳を迎えているのですが、後期高齢者になっても子供たちと格闘技に興じることができて至福この上もなく存じています。
昨日は大学病院に入院していた宇都伸一師範がやってきました。お話するお声を拝聴してどこがお悪いのだろうと思うことでした。
人それぞれ体調の変化はありますが、気力を充実して日々に挑みたいものです。
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『善の研究』第232回
神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽く合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこは頗る難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。
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安岡正篤著『儒教と老荘』---3回
-----儒教の現在及び将来------
儒教は名教といって単に名を説くものである。君臣とか父子とか夫婦とかの形式的道徳を説くものである。しかも時と処と人とによる道徳の変移ということを無視して、万古不変の形式的束縛を強うるものと論ずるのは、そは儒教それ自身に対しては余りに軽率な斧鉞(ふえつ)である。そしてまた儒教自体はそんな斧鉞では傷つかない。
儒教自体は先秦より宋明へかけて二千年、幾多の尊敬すべき思索家、体験家を通じて随分深い根底をも下し、広大な蔭をも掩有している。少し敬虔に考えて見れば、こんなことは何人も容易に考えつくことであろう。けれども儒教自体から離れて、いわゆる儒生なる者を概観すると、ここに初めて儒教排斥の原因が判明する。
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太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、古より帝王、多くは情に任せて喜怒し、喜べば則ち濫に功無きを賞し、怒れば則ち濫りに罪無きを殺す。是を以て天下の喪亂、此に由らざるば莫し。朕、今、夙夜(しゅくや)未だ嘗て此を以て心と為さずんばあらず。恆に公等の情を盡くして極諫せんことを欲す。公等も亦須く人の諫語を受くべし。豈に人の言の己の意に同じからざるを以て、便即ち短を護りて納れざるを得んや。若し人の諌を受くる能はずんば、安んぞ能く人を諌めんや、と。『貞観政要』151
太宗が房玄齢等に語って言われた、「古来の帝王の多くは、自分の感情のままに喜んだり怒ったりし、喜べば、やたらに功績のない者に褒美をやり、怒れば、やたらに罪のない者を殺してしまう。それだから、天下の死喪や禍乱というものは、こういう帝王の無反省な行動に原因しないものはない。我は、今、朝早くから夜おそくまで、この問題について心にかけないことはなかった。だから、いつも公等の真心を尽くして遠慮なく徹底的に我を諌めてくれることを希望している。そして、公等もまた、ぜひとも他人の諌めのことばを受け納れねばならない。どうして、他人の言が自分の意見と同じでないからといって、そのまま自分の短所をかばいまもり、他人の言を受け納れないことができようか。もし、人の諌めを受けることができなければ、どうして、人を諌めることができようぞ」と。
【コメント】人を諌める時は、相手の気持ちも斟酌して意見提起をしたいものです。人から諌められても、謙虚に冷静に受け止め矯正すべきは正したいものです。
昨日はタイへ行き電話による詐欺行為をした人々が、集団で日本へ移送されまたが、何故非違行為に手を染めるのでしょう。真面な人間なら、短絡的に悪に手を染めたりはしないのです。
何がいいと言って学問の道が最高の喜びを味わえると思いますので一考を要して欲しいものです。昨日は、安岡正篤師の『儒教と老荘』の一部をご紹介しましたが、その教えの素晴らしさに唸っています。
テレビドラマ等を見るより漢籍の世界を逍遥した方が宜しいかと思います。私の本棚は安岡師の本で埋まっています。
昨日の空手道教室も賑わいました。何時ものとおり終盤に組手技術向上に向けての訓練をしました。子供たちの蹴り技の威力が強くなってきているので頼もしい限りです。
子供たちの突きを受ける対象は山田師範、前田師範と私の三名で対応しました。私も前田師範も80歳を迎えているのですが、後期高齢者になっても子供たちと格闘技に興じることができて至福この上もなく存じています。
昨日は大学病院に入院していた宇都伸一師範がやってきました。お話するお声を拝聴してどこがお悪いのだろうと思うことでした。
人それぞれ体調の変化はありますが、気力を充実して日々に挑みたいものです。
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『善の研究』第232回
神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽く合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこは頗る難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。
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安岡正篤著『儒教と老荘』---3回
-----儒教の現在及び将来------
儒教は名教といって単に名を説くものである。君臣とか父子とか夫婦とかの形式的道徳を説くものである。しかも時と処と人とによる道徳の変移ということを無視して、万古不変の形式的束縛を強うるものと論ずるのは、そは儒教それ自身に対しては余りに軽率な斧鉞(ふえつ)である。そしてまた儒教自体はそんな斧鉞では傷つかない。
儒教自体は先秦より宋明へかけて二千年、幾多の尊敬すべき思索家、体験家を通じて随分深い根底をも下し、広大な蔭をも掩有している。少し敬虔に考えて見れば、こんなことは何人も容易に考えつくことであろう。けれども儒教自体から離れて、いわゆる儒生なる者を概観すると、ここに初めて儒教排斥の原因が判明する。
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