味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭となる。

2016-04-27 10:39:59 | ブログ
第2675号 28.04.27(水)
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書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭となる。『菜根譚』
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 たとえどんな立派な本を読んでも、聖人賢者の精神をとらえなければ、印刷屋の使用人となったようなものだ。565
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 【コメント】私の書棚には立派といってもよい書籍が一杯整理されていますが、読んでいる私は印刷屋の使用人以下であり、子供たちに『南洲翁遺訓』と空手道を教えることしかできません。それでもいいと思っています。鑑は荘内南洲会の先生方です。
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 昨日は先の土曜日に見学にきた男の子が入会調書を持ってきました。遠からず鳳の雛になるかも知れません。
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 現在読んでいる『西郷隆盛』は、坂本龍馬が寺田屋で襲撃される場面でした。その報を聞いた西郷隆盛が激昂する所です。

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『臥牛菅実秀』(第211回)
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 これが真実だとすれば、実秀は当初から、こうした政治的含みのもとに献金を承諾して上で、残額切り棄てに持ち込んだものかとも思われる。
 このようにして実秀は一年有半にわたる戦よりも苦しい武器なき戦のすえに、ついに老公の寄託に応えることができたのであった。
 実秀のここまでにいたる間の苦しい戦の跡を、のちにつぎのように語っている。
「なめくじが蛇のあたりをはいまわり、その痕を残しながら、段々と巻きつめていくと、蛇ははい出すこともできず、どのくらい苦しいものか、次第に体を縮め、取り巻かれた輪の中で棒立ちとなり、ついにハタとたおれて、そのまま死んでしまうと聞いていたが、移封問題や、それにつづいた献金問題を担当していたときは、まったく、この棒立ちになった蛇のようなものであった。しかし、棒立ちになるほど窮すると、かえって気持ちが定まり、はじめて意気も振い立ってくるものである。」
 さきの『月を看て感有り』の詩と、強く響き合う言葉である。

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『農士道』(第487回)
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 義を盡す-------詳しくいへば、道義的行為をなすといふことは、決して物に対して科学的研究もせず、技術的錬磨も積まず、人に対して快談笑唔も出来ず、熱憤赫怒も出来ぬ變屈者や間抜け者になることではない。自らは「義」を履んでいると思っていても、為す事行う事すべて不利に陥るといふが如きことあるに至らば、其の義と信じて行うている事が果して正しき義なりや否やを十分再検討する必要があるであろう。春になっても、発芽も生長もせぬような木の根は、已に生命無き枯木である。吾々の義は断じて枯義や死義に堕してはならぬ。殊に生産の業に精進する者に取っての義は生々溌剌たる生ける義-----鬱然として枝葉を繁茂せしむる力を有する活義活徳であらねばならぬ。
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