味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

昔賢一飯を懐う。玆の事已に千秋。

2015-07-29 09:59:05 | ブログ
第2404号 27.07.29(水)
.
昔賢一飯(せっけんいっぱん)を懐(おも)う。玆の事已に千秋。『三体詩』
.
 韓信は少年時代に極貧の生活をしていた。その様子を哀れんだ漂母(ひょうぼ)(洗濯婆さん)が一飯の食を与えた。のち韓信は志を得るに及んで、千金をもってこの恩に報いたという。
 そのころからすでに千年たった今日、人情は日に薄く、そうした報恩など、もはや考える人もあるまい。(劉長卿「漂母の墓)491

.
 【コメント】急速な情報文化等に押し流される今日この頃ですが、上の三体詩を読んで心うたれる人は皆無ではないと思います。
.
 善事と悪事をしたとして、後々、善事をしてよかったと思える人は多いと思います。内容は異なるのですが、『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で荘内の先生方を存じあげ、人間が学問を重ねれば、如何に素晴らしく、人々を啓蒙するかということを空手道の指導のたびに皆と語りあっています。
.
 独りの心ない人間が、荘内の方々が命に代えて出版した『南洲翁遺訓』を改竄しようとして企んだのを契機に、これでは西郷南洲翁の顔に泥を塗ることになるとして、阻止するため、荘内南洲会の先生方とご縁のある私を担ぎ出し、「西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会」を結成したのでした。
.
 当該本人は鹿児島市議会での質問を経て、その職・立場を退いたとは言え、今後何をしでかすかわかりません。尤も、その事件に関係のない人々が、荘内にお詫びに行こうということを聞き、理解に苦しんでいます。

---------------
『大学味講』(第241回)
.
   第九節  亡人は以て宝となすなし
.
 舅犯曰く、亡人は以て宝と為す無し、親に仁するを以て宝と為すと。
.
   註 釈
.
 亡人=亡命している人。
 親に仁する=「仁親」を従来は「仁」を「愛」と解して、大抵は「親を愛する」という意味で「親を仁する」と訓んでいるようだが、親に対して仁の道を尽すという意味で「親に仁す」と訓むこととしたい。中庸に「仁は人なり。親に親しむを大なりとなす」とあるが、「仁」とは孔子の教えの根元をなすものであって、それは情の自然より生ずる人間本来の道である。だからこの場合のように、父の死に当っては、親子の自然の人情から、親の死をいたむことが「仁」の道なのである。

--------------
『論語』(第341)
.
 子曰はく、之を愛しては能く労すること勿(な)からんや。焉(ここ)に忠にしては能く誨(おし)ふること勿からんや。
.
 孔子が言うには、「人が真にその子を愛するならば、これに苦労させて其人物を鍛えないでよかろうか。人に忠実である以上、これを教訓し忠告善道しないでよかろうか。」
-------------
『農士道』(第220回)
.
 既に出発点が確定し、到着点が確定すれば茲に自ら我が独往邁進すべき走路が生じて来る。此岸より彼岸に到らんとする船路が明らかに示されて来る。此の人生の走路-----波羅密(到彼岸)の船路こそ取りも直さず其人の「道」である。
.
 (註一) 然し此処で留意せねばならぬことは、「志」及「道」の内容である。苟くも「志」という以上、そは士たるの心であって、理性の所産であらねばならず、随って其の「道」も亦当然道徳的のものたるべきことである。
 それを志を立つると謂いながら、それが我執、我慾の所産であった場合には、それは實は「志」では無くして一つの「欲」に過ぎず、従って其れに至らんとする道も不知不識の間に邪道-----道むならぬ道-----に陥るのである。かう考へて見ると、私共は士道を行せんとと欲せば、先づ如何にしても十分に聖賢の道を学んで心性を明ねばならぬ。

.
 (註二) 以上「命」と「道」とのことを述べたが、そは決して不動のものではない。人生は造化であって、不断に生々たる「易」そのものである。従って命や志の状態も実は其時々に易るもので、昨の志は今の命となり、今日の志は明日の命となると考ふべきものである。「五十にして四十九年の非なるを知る」日新の生活こそ、尊い精進の過程であらねばならぬ。
---------------

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。