味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

人に三の不幸あり。少年にして高科に登るは一の不幸なり。

2016-11-07 09:43:54 | ブログ
第2869号 28.11.07(月)
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人に三つの不幸あり。少年にして高科に登るは一の不幸なり。父兄の勢に席(よ)りて美官と為るは二の不幸なり。高才ありて文章を能くするは三の不幸なり。『小学』
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 人間には三つの不幸がある。第一は年若くして官吏の試験に合格し、出世すること。第二は父母のおかげによって、立派な官職につくこと。第三は自分に才能があり、文章に達者であること。(程伊川のことば) 
 これらは常人の喜ぶところであるが実は、学問の未熟、他人のそしり、徳の不足によって、身を誤るもととなることが多い。312

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 【コメント】一義的には人々が求め、喜びとするところだとは思いますが、程伊川の言う通り、禍となることだってあると思います。これらは若い内はわからないと思います。歳を重ね高齢者になってみれば、あの躓きはあれだったのだな、ということが理解できるのではないでしょうか。
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 同窓生で頭が良く、人柄も良かった人が、短命に終わったという例があります。願わくば、御歳を召している人に訪ねるのも一方法ではないでしょうか。
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 有難いことに私は、南洲会の責任者であった平井政明先生、詩吟道師匠・竹下一雄先生方にお仕えしていろいろ伺ったことが一番良かったと思っています。
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 竹下先生との出会いがなければ、漢詩を創るなんてことは到底できなかったと思っています。残念なことは、竹下先生ご存命中に「人間・竹下秋嶽翁」を本人にお見せすることが出来なかったのが悔やまれてなりません。
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 西郷隆盛を一生書きつづけた鮫島志芽太先生には、病床に臥せっている所をお尋ねし、「人間・鮫島志芽太翁」をご持参しお渡しいたしました。
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 鮫島先生は西郷隆盛を書くものですから、「貴方の西郷隆盛は良かなぁ」という人は多いのですが、本人を絶賛した漢詩を創って贈呈したのは私だけであったそうてず。その喜びのあまり、「味園博之大先生様」と独特の文字で綴ったお手紙を頂戴いたしました。
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 私の漢詩は極めて稚拙なのですが、竹下先生との出会い、『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭であったと感謝する日々でございます。
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 今日のタイトルである『小学』の訓戒を子供たちに詳しく説明し、人生を誤る事なかれと説いています。私が学んで来たエキスを教えているので、普通の子供たちが知らない奥義を会得しているので、傲慢になってはいけない、人を見下げてはならない、喜びを独り占めしてはならない、人を罵倒してはいけないという事を、毎回の空手道教室でお話しているのです。
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 今は無き鹿児島で名声を博した空手道宗家殿は、俺が教えたのだから、いばりなさいと門弟に勧めたそうです。今頃、お前の指導はなっていないと閻魔さまにお叱りを受けていることでょう。
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 そういう事を学ぶためにも『南洲翁遺訓』を学修することが大事なのです。西郷さんの大河ドラマだけでは答えは出てこないのです。

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『臥牛菅実秀』(第404回)
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 この急速な紙幣の整理は必然的にデフレーションをひき起し、経済界全般は深刻な不況の渦にまきこまれ、明治十七年にはついに恐慌状態におちいった。この間、銀行はたえず不安にさらされたが、第六十七国立銀行もその例外ではなかった。
 明治十二年に設置された寒河江支店、小樽支店が、前者は十六年に後者は十八年に閉鎖されたのも、この経済恐慌と関連のあったことと思われる。それに加えて業務上の失敗も打ち続き、その前途も危ぶまれる状態に陥った。
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 実秀は、もし第六十七国立銀行が破綻するようなことがあっては、鶴岡町、ひいては全荘内にとっても大きな打撃になることを憂慮して、春山安均と第六十七国立銀行の再建策を熟議した。安均はこのとき酒井家の御地盤係(財政担当者)であった。
 明治十九年三月、実秀は第六十七国立銀行再建の基本線として、人事の刷新をはかり、春山安勧(熊八郎、安均の子、明治八年に実秀と一緒に鹿児島にいった。『臥牛先生遺教』に、この人の聞書が収録されている)を頭取とした。

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