味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

澄問ふ、仁義礼智の名は

2018-05-07 09:48:48 | ブログ
第3415号 30.05.07(月)

澄問ふ、仁義礼智の名は、已発に因って有りや、と。曰く、然り、と。他日澄曰く、惻隠・羞悪・辭譲・是非は、是れ性の表徳か、と。曰く、仁義礼智も、也(また)是れ表徳なり。性は一のみ。其の形體よりするや之を天と謂ひ、主宰よりするや之を帝と謂ひ、流行よりするや之を命と謂ひ、人に賦するよりするや之を性と謂ひ、身に主たるよりするや之を心と謂ふ。『伝習録』91

 澄問う。「仁義礼智の名称は、外に発現したものにつけたのでしょうか。」先生曰く、「その通りである。」
 別の日に私は言った、「惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端は、人の本性が外に表れた徳のことでとょうか。」先生曰く、「確かにそうであるが、仁・義・礼・智の四徳も、やはり性の表れた徳に外ならない。性はただ一つであるが時によって名称が変る。即ち、全体的な形から名づけた時は天といい、万物を主宰する意味からは帝といい、流動する意味からは命といい、人に賦与せられる意味からは性といい、一身の主体である意味からは心というのである。


 【コメント】仁義礼智は孟子の説いた四徳であり、孟子の公孫丑上篇に、「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。」とあって、仁・義・礼・智の四端はこれら四端の拡充されたものとする、とあります。

 我々凡人は遠く及ばない人間の徳でありますが、とにかくそういうことを知るだけでもいいのではないかとおもいます。連日、国会で虚偽の答弁をしたあげく、前言を翻し答弁する人々にはこういう仁義礼智の精神はどうなっているのでしょうか。とにかく、正直であって欲しいものです。

 正直にして貧賤をものともしなかった西郷南洲翁が生きていたら何というでしょうか。今、11時15分、テレビでは昨年広島の警察署で金庫に保管されていた8700万円の紛失事件が未解決だとのことです。広島警察署には手品師がいたのでしょうか。大変残念なことです。

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『不動心』(第273回)

 剣士ではなく拳闘士を見習う

 自分の信ずるところをなす際には、剣士ではなく拳闘士を手本にしたまえ。剣士は、剣を落としたら拾い上げるのに手間がかかる。一方、拳闘士の方はいつも自分の手があり、ただそれを握りしめさえすればいのだ。

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