第3413号 30.05.05(土)
堯二女をきせいにおさめ降せし所以は、舜禪(ゆず)る可きや、吾茲に試みんとせしなり。是れ天下を治むるには家を観、家を治むるには身を観るのみ。身の端(ただ)しきは、心誠なる謂なり。心を誠にするは、其の不善の動きを復すのみ。不善の動きは、妄なり。妄復せば則ち妄无(な)し。妄无ければ則ち誠なり。故に无妄(むもう)は復に次ぐ。而して先王は以て茂(さかん)に時に対して萬物を育すと曰ふ。深きかな、と。『近思録』409
堯がなぜ二人の娘をきせいに治め降嫁させたかといえば、舜は帝位の譲れる人間か、わたし(堯)が試してみようと考えたからである。つまり、天下が治められるかどうかは家庭を観察し、家庭が治められるかどうかは一身を観察するのである。一身が正しいとは、心が誠であることをいう。心を誠にするには、不善の動きをもとの善に戻すことだ。不善の動きは妄である。妄がもとに戻れば、妄がなくなる。妄がなくなれば誠である。故に无妄は複の次に並ぶ。そして、「先王は立派に天の時に配して万物を育成する。」と記してある。その言うところはなかなか深い。」
【コメント】言論が自由の時代においては、ここの論理は理解しがたい部分もあると思います。人間が健全にして幸せに生きていくためには、共存する人々とおだやかに仲良くして生きていくことが肝要だと思います。
元NHKアナの伯母様が独身のすすめみたいな自著を紹介していますが、独身で子供は生まれるのですか、と聞いてみたい思いです。尤も顔を見たくはありませんが。
自分の存在を認めて貰いたいなら独身のすすめはよくないでしょう。
別次元の話ですが、柳瀬総理秘書官が、知らぬ存ぜずといっていたことを国会答弁で翻すということらしいです。これには親分の口添えがあったのでしょうか。元議員の親分たちが安倍氏の三選を阻止するのではないかと思っての戦術転換ではないかと思うのです。
夫人の昭江おばさんは57件の要職をしているのだと報道されています。そういう多くの要職を兼務している方が、何故国会で答弁できないのか、国民を愚弄するにも程があります。
北朝鮮の殿様と似たり寄ったりという処でしょう。今だけのことではなく、立場の永遠なる栄光を思い、正直にして欲しいものです。私がご尊敬申し上げている荘内南洲会の先生方は迚も美しい生き方を見せてくれました。
ですから私は、『南洲翁遺訓』を空手道教室で子供たちに教えているのです。
-----------------
『不動心』(第271回)
手綱とりにかけては左手が右手にまさるわけ
成功がおぼつかないときでも、練習を積むことだ。左手は他のことには不慣れでうまくいかなくても、手綱を握ることにかけては右手よりもしっかりしている。それは左手がその練習を積んできたからだ。
------------------
『言志録四』117
処事と執事
事を処するには決断を要す。決断或は軽遽に失す。事を執るには謹厳を要す。謹厳或は拘泥に失す。須らく自省すべし。
〔訳文〕物事を処理するには、決断即ち思い切って行うことが必要である。しかし、この決断ということはしばしば軽はずみに陥ることがある。
また事務を執るのには謹厳即ち慎み深くかつおごそかである必要がある。しかし、謹厳の余り、或は、細部にこだわり過ぎて大本を失うことがある。以上、宜しく反省する必要がある。
---------------
堯二女をきせいにおさめ降せし所以は、舜禪(ゆず)る可きや、吾茲に試みんとせしなり。是れ天下を治むるには家を観、家を治むるには身を観るのみ。身の端(ただ)しきは、心誠なる謂なり。心を誠にするは、其の不善の動きを復すのみ。不善の動きは、妄なり。妄復せば則ち妄无(な)し。妄无ければ則ち誠なり。故に无妄(むもう)は復に次ぐ。而して先王は以て茂(さかん)に時に対して萬物を育すと曰ふ。深きかな、と。『近思録』409
堯がなぜ二人の娘をきせいに治め降嫁させたかといえば、舜は帝位の譲れる人間か、わたし(堯)が試してみようと考えたからである。つまり、天下が治められるかどうかは家庭を観察し、家庭が治められるかどうかは一身を観察するのである。一身が正しいとは、心が誠であることをいう。心を誠にするには、不善の動きをもとの善に戻すことだ。不善の動きは妄である。妄がもとに戻れば、妄がなくなる。妄がなくなれば誠である。故に无妄は複の次に並ぶ。そして、「先王は立派に天の時に配して万物を育成する。」と記してある。その言うところはなかなか深い。」
【コメント】言論が自由の時代においては、ここの論理は理解しがたい部分もあると思います。人間が健全にして幸せに生きていくためには、共存する人々とおだやかに仲良くして生きていくことが肝要だと思います。
元NHKアナの伯母様が独身のすすめみたいな自著を紹介していますが、独身で子供は生まれるのですか、と聞いてみたい思いです。尤も顔を見たくはありませんが。
自分の存在を認めて貰いたいなら独身のすすめはよくないでしょう。
別次元の話ですが、柳瀬総理秘書官が、知らぬ存ぜずといっていたことを国会答弁で翻すということらしいです。これには親分の口添えがあったのでしょうか。元議員の親分たちが安倍氏の三選を阻止するのではないかと思っての戦術転換ではないかと思うのです。
夫人の昭江おばさんは57件の要職をしているのだと報道されています。そういう多くの要職を兼務している方が、何故国会で答弁できないのか、国民を愚弄するにも程があります。
北朝鮮の殿様と似たり寄ったりという処でしょう。今だけのことではなく、立場の永遠なる栄光を思い、正直にして欲しいものです。私がご尊敬申し上げている荘内南洲会の先生方は迚も美しい生き方を見せてくれました。
ですから私は、『南洲翁遺訓』を空手道教室で子供たちに教えているのです。
-----------------
『不動心』(第271回)
手綱とりにかけては左手が右手にまさるわけ
成功がおぼつかないときでも、練習を積むことだ。左手は他のことには不慣れでうまくいかなくても、手綱を握ることにかけては右手よりもしっかりしている。それは左手がその練習を積んできたからだ。
------------------
『言志録四』117
処事と執事
事を処するには決断を要す。決断或は軽遽に失す。事を執るには謹厳を要す。謹厳或は拘泥に失す。須らく自省すべし。
〔訳文〕物事を処理するには、決断即ち思い切って行うことが必要である。しかし、この決断ということはしばしば軽はずみに陥ることがある。
また事務を執るのには謹厳即ち慎み深くかつおごそかである必要がある。しかし、謹厳の余り、或は、細部にこだわり過ぎて大本を失うことがある。以上、宜しく反省する必要がある。
---------------