味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

上は標枝の如く、民は野鹿の如し。『荘子』

2016-06-30 10:25:26 | ブログ
第2739号 28.06.30(木)
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(かみ)は標枝の如く、民は野鹿(やろく)の如し。『荘子』
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 上に立つ役人は、ただ高く伸びている枝のように、高いところにいるだけで、べつに仕事もせず、名利ものぞまず、一方民は、野に遊ぶ鹿のように、不平もなく、ゆうゆう自適している。
 これこそが老荘の理想の社会である。360

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 【コメント】字面を読むだけでは、現代は理想の社会であるように見える部分もあるようです。でも、現実は、一応は仕事はして名利も望んでいる人々も多いようです。一方民は、世相に追いまくられ、日々に生きるのがやっとではないでしょうか。これは致し方ないと思います。
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 『南洲翁遺訓』に言う、時代がいくら進んでも、「十に七八は小人なれば」とあるように、人々全部に期待するのは難しいでしょう。それでも、先の舛添事件のように、公私混同と思われるようなものには、毅然と意思表示をするのでそれでもいいのではないでしょうか。
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 今朝の新聞に週刊誌の内容が少しく紹介されていますが、舛添氏は次の選挙に出馬するらしいと紹介されています。その是非については、世の人々が選択することですので私共が言及することではないと思います。
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 ただ彼は子供たちのことを思えばという発言をしています。そこで、物事に対する質問等々には明確にお答えして、人々に納得してもらうことが肝要かと思います。世の人々で日々の生活が大変な人もいるのです。そういう人々からみたら、知事を辞職する際の対応に憤慨している人も多いでしょう。
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 ですから、そういう仕事に携わる人は、出来るだけ良心的でなければならないと思います。これは一般的な例として提言したいと思います。以前も書きましたが、人々の感情を逆なでするようなことは、聡明な人のすることではありません。不幸な事態に発展しない前に慎重に対処したいものです。

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『臥牛菅実秀』(第275回)
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 経言の父玄平は、わが子の縄目の恥を受けることに忍びず、
「正重の短刀を用いるのは今ではないか。」
といったが、経言は、
「いま自分が死ねば、誰が部下に罪のないことを申し開いてくれよう。」
といって応ぜず、縄目にかけられて東京に護送されていった。
  いま出づる旅路はついに別れらば形見とは見よ後田の月
 これは経言が、その子にのこしていった数首の歌の中の一首である。
 赤沢経言の処刑を心配した実秀は、なんとか死刑を免れるように、特に西郷隆盛に依頼し、西郷の取りはからいによって経言をはじめ新徴組内の八名は酒田司法省出張所に移されて、七年四月に出獄することができたのであった。
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 時が移り、『南洲翁遺訓』刊行に際して時の警視庁が、一部訂正して欲しいところがあると言ったのに対して、赤沢は、一言一句でも訂正したら『南洲翁遺訓』は刊行しないといって喧嘩別れした事象があったということですが、この毅然とした対応も、先の事件に対する西郷隆盛への思いもあったのではないでしょうか。これも美しい「徳の交わり」ではないでしょうか。

 話代わって、味園が荘内にお伺いした際、赤沢翁直筆の書幅を見せて上げると阿曾先生は言ったのですが、未だに拝見していませんので、次回は是非拝見させてほしいと思っています。

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『農士道』(第551回)
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 而して書物の註釈というものは又氷に氷柱の下りたるが如く、氷の解けて又氷柱となりしに同じ。世の中を潤沢せず、 氷の用をなさぬは矢張り同様なり。この氷となりたる経書を世上の用に立てんには胸中の温気を以て能く解かして、元の水となして用いざ れば世の潤澤にはならず、實に無益のものなり。氷を解かすべき温気胸中に無くして氷のままにて水の用をなすものと思ふは愚の至りな  り。世の中神儒佛の学者ありて世の中の用に立たぬはこれがためなり。能く思うべし。故に我が教は實行を尊む。夫れ経文といひ経書とい う。其の経とはもと機の立糸のことなれり。立糸のみにては用をなさず、横に日々實行を織込んでで初めて用をなすものなり。横に實行を 織らず、只堅糸のみにては益なきこと瓣を待たずして明かなり。-----」
といっているが、真に吾々は志の温気を以て文字の氷を解かさねばならぬ。

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