「もうひとつのクリスマス」について
先週の本コラムで主任牧師の平良憲誠先生は、クリスマス礼拝における私の説教についてこう書いてくださった。「青野先生の説教では、クリスマスのもう一つの見方、別の観点から福音の真理に迫る見方があることを教えていただいた。それは、福音理解の深さ、広さ、豊かさへつながった。」そして平良先生は、「この信仰告白は、何人の信仰をも制限することはない」という、平尾教会の信仰告白の前文を引用されながら、私青野は「私たちの教会の信仰告白を生きている」とも記してくださった。
私が平尾教会員になるよりも20数年前に書かれた平尾教会の、個々人の信仰を最大限尊重するという決意を表明しているこの信仰告白によって、私自身がどれほど力づけられてきたかは十分に言い尽くせないほどなので、平良先生のお言葉はほんとうに有難いものであった。イエスの誕生を「処女降誕」という形で理解する仕方は、決して肯定的に評価するわけにはいかない「奇跡信仰」そのものではないのか、とそれを批判的に捉える私の説教に、いたたまれない思いを持たれたのであろう一人のご婦人は、席を立って会堂を出ていかれたが、その方は他の教会に籍をおかれている方だったので、嗚呼、平尾教会の信仰告白の前文をその方もぜひ熟読玩味してほしいな、と思わずにはおれなかった。
実は12月半ばに西南学院大学神学部チャペルでも私はほぼ同じ主旨の説教をさせていただいたのだが、関東地方にお住いのG牧師は、私の説教との関連で最近次のようなメールを私にくださった。神学部に送り出している神学生が帰省した際に、その夫人に青野先生の安否を問うたところ、次のような返事が返ってきた、というのである。「お元気そうですよ。私は出席できなかったのですが、神学部チャペルで青野先生は、物議を醸す説教をお元気になさったそうですよ。」私の説教が「物議を醸す」ものとして神学生の間で受け止められてかもいたとは知らなかったが、それも理由のないことではないとは思った。
しかしその牧師は、「私はそれを聞いて嬉しくなりました」と記してくださったのだった。「物議を醸すほどに根底をつく言葉が少なすぎると思うからです。多くの教会でも、世界そして自分の足元がこれほどのスピードで激変し矛盾と葛藤に満ちているにもかかわらず、人々の中に物議を醸すような言葉が投げつけられていない現状に危機感さえ覚えているからです。」2011・3・11以後の世界はまさにそのような世界ではないのかと思うのだが、平良先生と言い、この牧師先生と言い、こうした同労者が与えられていることはほんとうに感謝なことだと思わずにはおれない。もちろん、中座こそしなかったものの私の説教でひどく傷つけられたと感じた方々がきっといらしたにちがいないと思うし、私自身も自分の捉え方が「絶対的に」正しいなどとは一刻たりとも思ったことはない。
しかし私が提示した、パウロやマルコに代表されるような、「処女降誕」を知らない「もうひとつのクリスマス」についての証言者もまた、新約聖書のなかには確実に存在しているという事実は否定できないだろうと思われるので、ともに新約聖書の多様な証言に耳を傾けていきたいものだと切に願っている。平良先生が先週結論として記してくださったように、「多様性は、己に固執せず、見聞を広げることから生まれる」のだから。
青野 師