さすが学問の力だねぇ
「幻の布」ともいわれた沖縄の織物、まるで精緻な刺繍を思わせる「読谷山花織」(ゆんたんざはなうい)。その復元がようやく叶った時、それをやり遂げた与那嶺貞に、仲間の一人が涙をこぼしてこう言ったという。「さすが学問の力 だねぇ。」精緻を極めた復元の作業を根っこで支えたのは、幾何学など、実業学校で身につけた知識だった。
作家の澤地久枝さんは、『琉球布紀行』のなかで、「学問のこういう“尊さ”を、私たちは久しく忘れ去ってはいないか」と言う(鷲田清一『折々のことば』、2018 年4月27日、朝日新聞朝刊)。「信仰」と「学問」は別物だ、と言うキリスト教徒は 多い。しかし、聖書に関わる「学問」も、澤地さんがここで言われる「学問」と同様に、何もこむずかしい理屈を言うわ けではない。例えば、福音書を読んでいると、よく類似した、しかしちょっとだけ違った物語や文言にしばしば遭遇す るのだが、これはいったいどうしてなのだろう、と疑問に思って、それらをメモし、統計をとってみる。するとそこに、一定 の法則のようなものがあることに気づかされることになる。
現在の新約聖書学においてほぼ定説となっている「二資料説」の出発点は、実はまさにそうした単純な疑問であった。<マタイとルカは、マルコ福音書を下敷きにして自 分たちの福音書を書いたが、その際、マルコには知られていなかったイエスの「語録集」(それをふつう「Q資料」と呼ぶ)をも、マタイとルカは使用した、つまり彼らはマルコ福音書とQ資料の「二つ」を主要な「資料」として用いたの だった>という仮説である。これで99.5%はうまく説明がつく。しかし残りの 0.5%は残念ながらそうはいかない。 だから、それは依然として「仮説」以外ではないのだが、しかし極めて高い蓋然性を持った仮説であることは間違い ない。私がしているような歴史的・批判的な聖書の読み方を批判して、「自分は書かれていることを素直にそのまま 読んで信じています」と言われる方がいる。
しかし、ほんとうに誠実に「そのまま」読んでいるのなら、こうした「学問」 的な疑問を実際には「素直に」持たざるをえないのではないか、と私には思われる。信仰の世界においても、「学問のこういう“尊さ”」を復権させる必要があるのではないか。
青野協力牧師