平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年7月8日 希望考

2018年07月22日 10時10分26秒 | Weblog
希望考

 希望というのは、何ごとかが成就するまでの状態や状況の過程にある者たちの期待感を言っているのだろうか。岩波辞典では「未来に望みをかけること。こうなればよい、なってほしいと願うこと、また、その事柄の内容」とある。そうすると、未来に望みを見出せない、なってほしいという思いにならない、そういう状態は、希望がない、失望ということになる。
 信仰する者が、希望を失わないのは、そうなったらいいなあ、という思いを超えて、そうなると信じているからである。しかも、その根拠を自分の力においていないからだ。神様が、それを成し遂げてくださると信じているのである。
 そして、最後の希望は、神の国において永遠の命をいただいて生きることになるということであって、その希望の実現を客観的に否定できるものもないから、それで希望を失わないですんでいるとも言える。だから、信仰に生きる者たちは、気持の上では基本的に元気なはずなのである。たとえ、体が衰えていこうとも、病気になろうとも、神様のお力に頼る限り、希望が失せることはない。サッカーのワールドカップで、惜しくも日本はベルギーに負けた。
 しかし、組織力などでは世界に通用するまでになったと言える。だから、次につながるというので大いに希望がもてるということになった。しかし、希望というのは、こうした状態が一番いいのかもしれない。つまり、希望は手の届くあたりが際立って輝く。


平良牧師