平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年6月24日 星野富弘さん展示会に来ませんか?

2018年07月03日 13時27分55秒 | Weblog
星野富弘さん展示会に来ませんか?

 7月6日(金)~7月7日(土)10:00~16:00までの間で星野富弘さんの詩と絵の展示会が大名クロスガーデンで行われます。オープンチャーチとしてこの展示会を行いますので、どうぞお誘いあわせの上、お越しください。星野富弘さんとの出会いは私が長崎バプテスト教会に通い始めてから、その存在を知りました。
 首から上が不慮の事故により動かなくなった星野さんが、大変な労苦の中で生きる希望を見いだし、また牧師やキリスト教との出会いを経て、現在口に筆を咥えて絵と詩を書き続けておられます。口にくわえて描くという事の困難さが私には想像することすら大変難しいのですが、そんな方が、心に生きる喜びと自分に与えられた使命を全うしておられるのは、当時の私にとって大きな慰めと励ましを頂いたものでした。
 今回、様々な導きがあり、星野さんの詩画展をこの場所で出来ますことを大変な喜びとしています。普段は熊本県の芦北町立星野富弘美術館に展示してありますが、貴重な機会として、この時をどうぞお用い下さい。合わせて今年の7月には星野さんの詩を歌にされ、熊本大震災や九州北部豪雨の被災地を訪問して歌っておられるゴスペルフォークデュオ「オリーブ」の震災支援チャリティコンサートも7月28日(土)19:00@大名クロスガーデンで行われます。
 今回のコンサートでは星野さんの詩画から曲をつけたアルバム「立ち止まっていいんだよ」から歌われます。ひと時、自分の人生を見つめ直す立ち止まるときとなれればーと願っています。


森牧師

2018年6月17日 霧島連山の地下に巨大なマグマだまりが!

2018年07月03日 13時19分51秒 | Weblog
霧島連山の地下に巨大なマグマだまりが!

 先日、誰かと話をしていたら、霧島連山の下に、15キロのマグマがあるらしい、というので、私は、てっきり15キログラムのマグマがあると言ったのかと思って、なんだそれだけのマグマがあるというだけで、えらく大袈裟な感じで話すなあ、と思っていたら、何とそれは、長さのことであって、長さ15キロメートル、深さ5キロメートルにわたる量のマグマだそうだ。
 3月6日に霧島連山の新燃岳が爆発的噴火を起こし、4月5日には、噴煙が8000メートルまで昇った。それから、4月19日には、約250年ぶりに同じく霧島連山の硫黄山が噴火した。現在、この二つの火山が活発な活動を続けているという。
 1707年の富士山の宝永噴火では、東京ドーム1300杯分のマグマが噴き出し、東京(江戸)でも数センチの火山灰が積もったそうだ。霧島連山の地下にある1%のマグマの、その数分の1が噴火するだけでも、東京ドーム1300杯分になるという。
 それだけならまだいいが、南海トラフのような巨大地震が起こり、ここらの断層がパックリ開くと、それこそ超巨大噴火が起こり、火砕流で、九州全土に大きな被害が出、日本は大パニックになり、おまけに、原発が爆発すれば、それこそ最悪の事態になるかもという。神様の創造の秩序もあろうが、そこに原発まで加わり、取り返しのつかないことになる可能性がある。私たち人間の考えている人生設計、それで得られるはずの幸せなども木端微塵である。天の国に宝を積むことに勤しもう。


平良牧師

2018年6月10日 自分の弱さを認めることの強さ

2018年07月03日 12時59分44秒 | Weblog
自分の弱さを認めることの強さ

 自分の弱さや非を認めることのできる人は、実は、真実には強い人であることを聖書から教えられる。だから、これができない人間は、真実には弱い人か、余程の悪党である。最近の政治家は、真実には弱い人なのか、悪党なのか、定かには分からない。
 パウロは、そういった意味では、実に強靭な人であったと私には思える。彼ほど、自分の弱さを、誇るほどに語った人がいただろうか。逆に、自分の強さや正当さばかりを語る者は、実は、愚かと言えるほどに弱い人である。どこかの国々の為政者たちを思い浮かべることができる。
 聖書に描かれている福音の内容の多くは、ほとんど逆説的なものである。悔い改めという言葉がある。これは、神様の前に出た自分を想定して、自分の非を認め、神様に立ち戻ることを言う。この世にあっては、自分の非を認めることは、勇気のいることであるし、誇りが傷つくことであるし、社会におけるこれまでの信用や評価を失うことにもつながる。
 しかし、いいこともある。それ以上はもう、これまで負っていた重荷を負うことはいらない。また、誰からも責められることもなくなる。一件落着である。それどころか、神の国において、その人の評価は、高くなるばかりだ。お祝いものなのである。それだけでなく復活の命さえも与えられたと言える。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのはあたり前ではないか」。


平良牧師