晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

四塚-4 11/19

2017-11-19 | 上林たんけん隊

2017.11.19(日)雨

 狐塚を後にして蓮華寺を回り光明塚に向かう。光明塚は狐塚から蓮華寺を挟んで南西に五分、狐塚よりは規模は小さいが、北側と西側が通りに面していたのだろうか、三角形の行儀のよい形をしている。

        針小路から右が狐塚、左が光明塚、正面の建物がかつての幼稚園だったろうか?
 狐塚よりは古い石塔が多く、近世の東寺の僧の石塔も多くあるそうだ。中世には東寺が葬送互助組織「光明真言講」を発足させ、その専用の墓地として「光明真言塚」を持っていて狐塚の付近にあったというから、この墓地が該当するのだろう。道祐が「光明塚」といったのもこの塚と判断できる。墓地の入り口には光明塚の銘板が見え、墓地内には戦後に建てられた「光明法界塔」があるが、必ずしも一貫して光明塚では無かったようだ。古文書によると当初は光明真言塚と書かれているが、堺(塚のこと)、狐塚、西塚という風に変わっている。近世の地図などでは狐塚しか描かれておらず、二つを合わせて狐塚と呼ばれていたと考えられる。このことは後ほど紹介する「女御田塚」「杉塚」と関連するので重要なことである。西塚というのは二つの内、西の方という意味かもしれない。


  光明塚は狐塚より整然としており、施錠されている。       
 墓地内は狐塚に比べ整然と石塔が並んでおり、また立派なものが多い。葬送互助組織といっても庶民が利用できるようなものではなかったようだ。
 狐塚、光明塚とも一段高い場所にあることに気づく。もともと古墳だったとすれば話は簡単だが、その証拠も無い。平安京という都市は平らであったと考えがちだが、実は結構でこぼこしていたのではないだろうか。その小高いところが葬地となり、今日まで地形的に手を着けることがなくて来たとしたら、一種の地形の化石とでもいえよう。古墳も夢があるが、こちらの方が夢がありそうだ。
 さて問題の四塚の三昧(火葬場)であるが、これは狐塚にある。
 「遠碧軒記」上之一に「狐が岡は東寺の西に有、此所と西院とが燃料心やすきにより、下京醒井通辺の者のさびものは、みなこれへ行となり」
 西院とは以前に紹介した最勝河原のことで(2017.7.6~参照)狐塚とともに平安京洛中にあるので、平安時代の初期には存在し得ないと考えられる。従って右京の衰退後にできたものであろう。他の三昧より値段が安いというのはやはり、後発の三昧だということだろうか。より庶民的であったのかもしれない、ただし庶民といっても裕福な者に限られるだろうが。
 狐塚の三昧は古文書にも多く現れるが、文久2年の京都市掌図(1862年)に六孫王社の西、八条通南に狐塚その東に火ヤ(火屋、火葬場のこと)と載っている。火ヤは少し南に入る道が描かれているので狐塚の中にあったということではなさそうだ。

狐塚の火屋を表す古地図と、平安期の女御田の地図、実際は6ブロックが女御田のようだ。  

 ここで「日本中世の墓と葬送」の中に気になる記事がある。市屋金光寺(北小路猪熊の火葬場を持つ道場)と狐塚の火屋の関係である。東寺百合文書にある古文書なのだが、要約すると市屋金光寺が以前から申し請けている女御田の狐塚以外の塚も管理させて欲しい、というものである。つまり女御田塚という塚が狐塚以外にあったのではというものである。女御田というのは平安京の朱雀大路から西、八条から南の東西2ブロック、南北3ブロックがこれにあたる。唐橋井園町、唐橋赤金町辺りがそうである。この南に唐橋花園町があるが、これが平安京の花苑にあたるから、地名というのはずいぶん昔のことを教えてくれる。つづく

【今日のじょん】今秋の天気はいったい何なんだ。とにかく連続の雨で本来10月には終わっていよう庭木の剪定がまだ終わらない。じょんには関係ないんだけど、一緒にここまでの作品を見てくれい。

コメント
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