晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(14) 西光密寺(6) 7/24

2013-07-24 | 飯盛山


2013.7.24(水)雨、曇り

 西光寺の創建は天平勝宝八年(756年)と伝えられ、荒井神社は「三代実録」に元慶6年(882年)十月九日条に記事がありこの年には存在していたことがわかる。
荒井神社は延喜式内社の嶋物部神社の有力候補とされており、明治の神仏分離までは西光寺禅学院の両部僧が神職をつとめていたということである。(両寺社案内板等)
 このことは西光寺、荒井神社ともにこの地方でもっとも古い寺社であり、神仏分離までは同一のものであったと考えられることである。飯盛山と物部一族がどの様に関わりがあったのかわからないが、将来その関係が発見されるかもしれないという期待を持って、今記憶にとどめておきたいと思うのである。
 荒井神社が元々明治祈念碑の位置にあったという情報は、某サイトで見かけたのみで、西光寺住職も聞いたことがないとおっしゃっておられる。
 明治祈念碑が明治24年(1891年)に建てられた際に、元神社の跡が残っていたとするとそれはあり得ることと思う。祈念碑の周辺には周囲の石垣が残されている。祈念碑の付近にはいくつかの瓦の破片が落ちている。普通の瓦なのだが、一部丸瓦の破片が落ちていた。それが明治24年以前のものとわかれば、そこに何かの建物が存在していたと考えられる。
 西光寺住職に瓦の件を話すと、「それは土塀の瓦です、わたしが小さい頃には土塀があった記憶があります」ということだった。土塀という意識はなかったのでよく観察はしていないのだが、土塀が朽ち果てたものなら、塀の土や柱などの一部が残っていても良さそうなのだが、その気配は無かったように思う。
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石垣は割合しっかり残っている、瓦の破片は基壇左奥に集中している。 

  祈念碑が出来た際に土塀も作られたとすると、120数年でここまで跡形もなく朽ち果てるものだろうかという疑問も出てくる。
 石垣、石段はこの付近の山石を利用したもののようだが、割合よく残っており、崩壊しているような風もない。
 考えれば 謎だらけなんだが、果たして石垣、土塀はいつ出来上がったものなのだろう。
 荒井神社の案内板に以下の文章がある。
「明治八年の『寺社取調帳』に「永禄9年十月吉日造作」の板札が一枚あると記されていることから室町時代後の建立と考えられる」というものである。これは現位置にある荒井神社の本殿に関する事項なので、荒井神社が移転したとしても室町時代以前のこととなる。そうすると明治24年に元荒井神社の石垣や土塀が残っていたとはとうてい考えられないのである。
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荒井神社と本殿案内板。


 瓦の破片は祈念碑の左奥周辺に集中している。もし土塀の瓦であれば広範囲に分散している方が自然である。
 元荒井神社がその地にあったとしても、跡地をそのまま放っておくのではなく、小さな祠でも建ててひっそりとお祀りしていたのではないだろうか。その祠の瓦が破片となって残っており、石垣などは明治の時期に新たに造られたと考えれば少しは矛盾が解消する。土地の広さだって、祈念碑のためにはぴったりの広さだが、神社があったとしたらこれでは狭すぎる。
 では元荒井神社がこの地にあったと仮定して、なぜ現在の西光寺参道脇に移転しなければならないのか考えてみよう。つづく


【今日のじょん】久々のレインコート着せたら、ちょいとオシッコしただけでとんで帰ってきた。その後庇の下でぼーっとしているのである。見て、この情けない顔。P1040975
P1040977

 

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