晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(15) 西光密寺(7) 7/25

2013-07-26 | 飯盛山

2013.7.25(木)晴れ

 荒井神社が明治記念碑の位置から現在地に移転したかどうかもわからないのに、その理由を探るというのも変だが、明治記念碑の広場からすぐ下方に西光寺本堂の屋根を見下ろしたときに、移転があったとしたらこういう理由だろうなあと感じた。
それは西光寺が隆盛になるとともに、その本堂の更に上部にある荒井神社がさわりに感じたのではないだろうか。両寺社が一体のものであったとしても、西光寺が神職を派遣しているのだから、立場としては西光寺が上位である。立場上下位である社殿が本堂の上部に存在するのは堪らない。そういった考えで参道入り口脇に位置を変えたのではないかと想像するのである。そう考えると荒井神社は西光寺が創建される前から存在したことになる。
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庫裡の右の石段を登ると本堂の阿弥陀堂、明治記念碑は更に右の尾根に取り付き本堂の斜め上部になる。

現在の荒井神社は八木町美里荒井1に存在する。美里は雀部、神田、広垣内、三地区の合成地名だが、荒井は地名が先なのか、神社が先なのかわからない。一般的には地名が先の場合が多いが、そうすると「三代実録」の元慶六年(882年)には現在地に存在したこととなる。それ以前に移転していたとしたら、何らかの文書でも無い限りわからない話である。
 ただ明治記念碑の地に散在する瓦が、明治24年以前のものとわかれば、そこに何らかの建物が存在したということになるので、元荒井神社の可能性は出てくるが、少なくとも8世紀、9世紀というような代物ではなさそうだ。
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明治記念碑付近に散在する瓦片、専門家なら年代も特定出来るそうだ。

ネット上の不確かな情報のせいで随分遠回りしたが、荒井神社が移転したか否かというのはわたしの探究することとはあまり縁がなさそうである。
 わたしが真に知りたいと思うのは飯盛山の本質である。なぜ飯盛山と呼ばれたか、飯盛山はどのような役割を果たしたかという点である。
 気になるのは飯盛山の形状である。一般的に飯盛山というのは三角錐の神奈備山状なのである。中には見る方向によってそうで無い場合もあるが、ある方向から見るとしっかり神奈備山状を呈しているものである。きれいな三角錐ばかりではなくドーム状であったりする場合もあるのだが、この八木町の飯盛山はどうもそれらしい形が見られない。地形図で見ると西側に当たる園部町小山東町方面から見ればそれらしくなるかもしれないが、東北、東、南、南東から見る限り飯盛山の特徴は無い。
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桂川新庄橋から(東北)右からの稜線の末端のピーク。
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園部川神田橋から(南東)
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八木西I.C入り口から(南)P1040958




住職が、玉泉の水を引いて、玉泉紅葉の滝という庭園を造られている。

 飯盛山の形状に不審を抱いているとき、読書中の「大和の原像」(小川光三著)の中に気になる文章を発見した。つづく

【作業日誌 7/25】
植木屋さん柳影を?んでかい(3日目)

【今日のじょん】爆発南京の葉が鹿に襲われている。深夜に雨が降ったので、今朝は泥の上に鹿の足跡がくっきり、どうする?
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