晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(36) 番外編 7/19

2013-07-20 | インポート

2013.7.19(金)曇り 京都帝釈天(20)八幡・厄神社の盃状穴

 神社巡りの好きな方ならどなたでも気づかれると思うが、ほとんどの神社で手水鉢は新旧あって、旧のものは社務所の脇などに置かれている場合が多い。これは特に手水鉢がよく更改されるということではなくて、古い手水鉢が何かに流用出来にくいということだろうと思う。
 新旧残っているということは更改がなされたという事であって、どこの神社でも更改なされるというのが一般的なのだろうが、旧のものでも使用に耐えるものである。そのことは奉納されるケースが多いことをうかがわせる。

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例えばこれは八木町の久留守神社である。新しい手水鉢があり、古いものは社務所の右に放置してある。石垣や石段に古い石材が使われているが、手水鉢は再利用が効かないためだろうか。(2013.6.18)

それにしてもこの八幡・厄神社の手水鉢は、周囲の敷石や建物などすべてが新しい物なのにそれだけが旧のままなのだろう。
 八幡社の鳥居と一緒に小出公から奉納されたものならば答えは明白である。そこのところも博物館には問い合わせているが、果たして答えは出るだろうか。少なくとも手水鉢に銘は無かったように思うのだ。次回再度調べてみたいと思う。
手水鉢の考察はそれ以降にして、今ひとつ重大な疑問がある。
 それはこの神社の境内で鉄滓が見つかり、12世紀の製鉄所があったという事である。角川の「日本地名大辞典」に書かれていることなので、何らかの根拠があるのだろう。
 どのような経緯で鉄滓が発見され、12世紀の製鉄所跡と断定されたのか、是非知りたいところである。その件も博物館に問い合わせた。来週の訪問が楽しみである。
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南丹市立文化博物館の博物館だよりにある垣内古墳の復元図である。南西から東北に走っているのが日吉町に向かう府道19号線で、神社の参道鳥居部分が拡幅工事で後退したことがわかる。境内が古墳の後円部の重要な位置を占めていることもわかる。

4世紀頃と言われる巨大な古墳と12世紀の製鉄遺跡とは無関係だとは思われるが、古墳の遺物には多くの鉄製品が存在し、近隣で生産された可能性はあるだろう。この周辺が鉄生産の拠点であったと考えてもおかしくはない。
 ただ8世紀の開きがあるとは言え、古墳の後円部に製鉄遺跡があるというのはなんとも不思議な感がする。
 垣内古墳のある内林町は今林村と垣内村の合併による合成地名である。博物館の地図模型に今林牧というのがある。調べてもらうと文献に現れるのは中世だったろうか、この牧が製鉄所と関連するのではないかと考えるところである。

【今日のじょん】網張りが終了して、とりあえずドッグランどが完成した。勝手にドッグランを5年間もしているじょんにとってはあまり関係ないのだが、結構気に入ってるようなので、まずは安心ってところか。P1040894


えっナニ、床下の網が張れたって、、、カンケーねえよ

【作業日誌 7/19】
草刈り(4-3)
ドッグランど網張り完成
庭木剪定初日(コニファーなど)
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今年からこういう機械を導入して、庭木がおしゃれに仕上がるのだ。

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