晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

訃報 小川光三さん

2016-06-05 | 地名・山名考

2016.6.5(日)穴虫考(155)穴虫考(154)は2915.11.27

 穴虫考を読んでおられる方はご存じかと思うが、写真家の小川光三(おがわこうぞう)氏が亡くなられた。穴虫という奇妙な地名に取り付かれ154回もの記事を書いてきた。その出発点が小川光三氏の「大和の原像」なのである。小川氏は古文化財の撮影を専門的にしてこられ、父の写真家・小川晴暘氏の創業された「飛鳥園」の社長会長を務められた。

写真家だけに使われている写真もすばらしい。箸墓の夕景と訃報記事
 実は「大和の原像」を読んで穴虫を調べ始めたわけではない。当初は日置氏、上林の日置谷(へきだに)について調べるため、「知られざる古代」水谷慶一著を読んで水谷氏のいう「太陽の道」なるものの原点が「大和の原像」にあるというのが出発点である。「知られざる古代」の冒頭にO氏、M氏という諾名の人物が出てくる、O氏は小川光三氏、M氏は松本清張氏である。太陽の道とは奈良から伊勢に続く重要な古代遺跡を直線でつなぐと北緯34度32分の一直線になるというなんとも不思議な話なのだが、このことの最初の提唱者が小川光三氏なのだ。「謎の北緯34度32分をゆくー知られざる古代」は昭和55年2月11日にNHKで放映されたもので、わたしは見ていないのだが反響の大きな番組だったようだ。思い起こせばこれらの本を読むに至った原因はもっと違ったところにあった。歴史を金属で解こうという意識があり、最初に読んだ本が「古代の鉄と神々」真弓常忠著である。その中に小川氏、水谷氏のいう「太陽の道」は実は「鉄の道」いわゆる中央構造線だという強烈な批判文が載っていたのだ。

古代の鉄と神々、金属関連で最初に読んだ本。
真弓氏の批判に対し小川氏、水谷氏の反論は目にしたことはないのだけど、わたしは日神祭祀も古代測量も産鉄をはじめとした古代の金属採取も矛盾するものではないと考えている。日置氏は測量もしたし日神祭祀もしたし、金属の採掘もした部民であると考える。特に測量ということを考えると、器具も機械も無い古代に古墳や大規模な建造物、ついには都の建設までなすという影には正確な測量技術、それをなしうる専門的技術者がいたはずで、日置氏もその一員ではないかと思われる。

次々と読みあさった本
 「大和の現像」を読むに至った経緯はこのようなものだが、なぜ穴虫なのかということになる。太陽の道は奈良県に入ると幾つかの遺跡を通り、桧原神社からやがては穴虫峠を通過することになる。つまり春分秋分には桧原神社から見ると夕日は穴虫峠に落ちることになる。小川氏はこの穴虫の地名について次のように書いている。
 古代の人の考えていた宇宙観では、西海に大穴があり、東から出た太陽は天空を横断してこの穴に入り、翌日ふたたび東より現れると信じられていたという。本州の西端、山口県は長門の国だが書紀には穴門(あなと)の国とある。穴門とは西海にあるこの大穴の入口、最も近い場所を意味している。とすれば大穴道とは太陽の落ちる大穴に至る道の意と考えられる。この穴道(あなみち)がアナムチと発音され、やがてアナムシと変化したのが穴虫の語源ではないだろうか。
 穴虫という奇妙な地名についてはじめて語源を語る文章を見つけた。そしてなんともロマンに満ちた発想と文章である。穴虫峠の大阪側には多くの古墳があり、竹内街道と共に葬送の道となっている。吉備の古代を調べると半島に囲まれた内海は穴と呼ばれその陸地側にやはり多くの古墳が存在する。穴虫が穴道であったなら、そこは黄泉の国への入り口と言うことになる。
 ところが穴虫は各地に存在し、一般的な地名なのである。取り憑かれたように各地をめぐり、現地を見て、様々な文献も目にした。穴虫考をさかのぼって読んでいただければその様子がわかると思うが、小川氏の穴道説は残念ながら賛同できない。もちろん結論に達した訳ではないのだが、小川氏に穴虫研究のきっかけをいただいたことは確かだし、こんな事をお話したかったと思うのである。合掌

【今日のじょん】先日くうちゃんが来じょん、ドッグランどができた頃に来られたそうだ。よい写真が撮れましたぞ。

コーヒー飲んでるみたいでしょ

じょんは必死に覗いてるのだ。

 

コメント
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