2010.7.13(火)雨
縄文時代が狩猟採集の時代だとすれば、弥生時代は農耕、稲作の時代といえるだろう。渡航技術が進み南方からの流入が盛んになると共に、稲作技術が導入された。北九州辺りが濃厚というふうに習ったが、吉野ヶ里遺跡のような巨大な弥生時代の遺跡が存在するのは当然と思われるし、邪馬台国もこのあたりに存在したのだろうと私は思っている。稲作農耕はそれまでの狩猟などよりも随分生活は安定してくるだろうし、移動から定住に生活そのものが変わってくるだろう。ところが稲作というのはどこでも可能というわけではない。気温の低い北海道、東北などは現在でこそ盛んだが、当時は到底困難である。北海道では続縄文時代といって縄文文化が七世紀頃まで続くのである。
函館市大船遺跡(縄文遺跡)の竪穴式住居跡、人の背より深い穴は防寒のためだろうか。(2006.10.4参照)
気温だけでなく地質も関係するだろう、南九州のシラス台地や関東ローム層も当時の技術では稲作は困難だと思う。また西日本などでも山間部や寒冷地などは稲作定住化の流れにそぐわなかったのではないだろうか。そういったところでは縄文文化は継続され、狩猟漁撈あるいは農耕以外の生活手段によって生きていく部族というか民族というかとなるのではないか。それが蝦夷なのではないか。南九州の熊襲も同様の条件で発生したものと考える。そうすると稲作に不適であった地域に蝦夷や熊襲が存在したというのも理解できる。ただ熊襲も蝦夷も政治的に国家に反抗するものをすべてそれらと見なしている部分もあるようだ。
割掛遺跡(弥生中期以降・豊後高田市)弥生時代となっても住居はあまり変遷していないようだ。中世でもまだ地方の住居は竪穴式が残っていたという説もあるようだ。(2007.3.20)
稲作定住が進んだ弥生人はますます混血が進み、和人として定着する。やがて国家を作った和人は蝦夷の資源や技術を狙って侵略する。そして同化が進み現在では蝦夷という民族は居ない。ただ純粋に細々と残ったのがアイヌなのじゃないか。人類学的にアイヌと和人の差異やその遺伝的形質などは解明されているだろう。それを学習していくのはとても楽しみだが、もっと知りたいのは言語である。
今日のところを要約すると、日本中にほぼ同様の文化を持つ縄文人がいて、これがいわゆる日本人の元であって、仮に原日本人と言っておこう。稲作農耕が始まってそれに相容れない地域の縄文人はその文化を継続し、蝦夷となった。稲作農耕を始めた原日本人は弥生人となり、更に混血を繰り返し和人となった。蝦夷はやがて和人に同化してゆくのだが、ある程度純粋に原日本人の血を残してきたのがアイヌ人なのではないだろうか。人種的なものは別として文化的に原日本人、蝦夷の文化を引き継いでいるのが、サンカとかマタギ、あるいは木地師などの漂流文化だと思っている。つづく(蝦夷・アイヌ・縄文人(3)は2010.7.7参照)
【キヌガサタケ情報(2)】
7月12日(雨、曇)
一昨日見つけた卵、もとい壺はそのままだ。雨のせいか、気温のせいか、それとも壺を触ったので駄目になったか。
7月13日(雨 24℃、80%)
朝から観測したため、良好にレースの開いているのを発見、2010-No.4 9:50、雨、25℃、80%、場所は木小屋西でNo.1の隣、もう一個壺有り。
発見、収穫、計測(約19cm)
【作業日誌 7/13】
今日のじょん:かみさんがぎっくり腰になって、半日整形外科に行っていた。よたよたと伝い歩きをする姿を見て「じょんもわかるんやなあ」と言っているが、本当にそのとおりで、心配そうな顔でちらちらとおかーの方を見ている。腰痛がどうのってのは解らなくても、何か様子がおかしいなあとは気づいているようだ。