晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

邪馬台国の東遷 3/26

2010-03-26 | 歴史・民俗

2010.3.26(金)雨、曇、晴、霰、雪

 例によってわけの解らない天気である。作業がちっとも進んでないので、濡れながらドッグランどの穴掘りをする。今日はセリーグの開幕戦なんだが、先発が安藤では期待できないなと思いきや、城島の活躍で快勝してしまった。どこがって、阪神だよ。
 さて、昨日の続きだが邪馬台国について考えるところがあるので書いておきたい。わたしは邪馬台国九州説である。なにしろ松本清張と宮崎康平の世代だから、そのうえ吉野ヶ里遺跡を見て、すっかり九州説に傾いている。というよりは邪馬台国東遷説なのだ。魏志倭人伝にある邪馬台国は九州北部にあり、卑弥呼が死んだ後東に進み、近畿のいわゆる大和で大和政権をうち立てたというのが解りやすいかと思う。
こうするといろんな意味でつじつまが合うのだが、ひとつ気になるのは九州から畿内に移動をしてその勢力は衰えないものかと思うわけである。ましてや井沢氏の説では、邪馬台国は狗奴国に負けて、卑弥呼は殺害されて、その後に東進して大和にたどり着くというものである。一般的に考えられないなあと思っていたのだが、畿内の勢力がそれほど強くなかった、東進中に力をつけたなどの条件があれば可能な事だと考える。畿内にいた勢力は物部氏だという説もあるようだが、まだ読んでいないので何とも言えない。これはわたしの想像だが、東進したコースは佐多岬から松山、西条、そして吉野川沿いに徳島、淡路島を経て難波に上陸したのではないだろうか。佐賀関半島から佐多岬は、関門海峡ほどではないが目と鼻の先である。Img_3352

佐賀関半島つけ根付近から佐多岬。


 そして四国の中央構造線上の銅、鉄鉱山を支配することによって力を着けていったのではないだろうか。難波の巨大前方後円墳が、いきなり発生した風に言われているが、実はもっとも古い前方後円墳は吉野川流域にある。巨大な古墳が造営された時にも、阿波の石材と技術が使われたそうである。そのへんは「日本の建国と阿波忌部」林博章著にあるのだが、まだ読書中で完全なことが言えない。でもこのルートで東進したとしたら、つじつまの合うことがあるようだ。つづく

【作業日誌 3/26】
ドッグランど穴掘り

今日のじょん:昨晩あんまり吠えるので、「よしよし大丈夫やで」と何度もなぐさめていた。朝起きて散歩に出てびっくり、隣の畑はイノシシが大暴れしていて、じょんのびファームも少し掘られていた。Img_4098_4 Img_4097 雨の後だけに新しい足跡がくっきり、カメムシかなあ、雨風の音かなあ、隣のチコかなあなんて、のーてんきなことを言ってる場合じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったわけだ、じょんは偉い。Img_4095  

コメント (2)
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