鹿フェンスの山側に白い林を見た。
近づいてみると鹿に樹皮を食べられた偽アカシアの7林だった。
多分アカシアは枯死するだろう。
名古屋駅(3月16日)
ホテルの窓から新幹線ホームのはずれが見え、しばらく見ている間に、その発着回数の多さに驚かされた。
主要路線特急が1時間に1本走るから便利になったというローカル線とは次元が違う。
塩尻駅付近の土埃(3月16日)
駅の西方に広がる畑作地に今日も強風が吹いて、砂嵐が空を覆い移動していた。
街の中はマスクがあふれて、だれが誰やらわからなかった。
中央西線は塩尻から多治見まで、木曽谷を約90分かけて走り抜ける。
木曽谷の流れに沿って上り下りしたことは何百回を超えるだろう、通る度にいつも懐かしさに浸りきる。
森林鉄道のきしむ客車に乗って岐阜県に近い三浦ダムまでいったことがある。
そして森林伐採の最前線に出向き、森人の健康診断を手伝った。
里近くに氷ケ瀬という駅舎があって、小さな集落があったように思う。
そこの宿舎に泊めていただき、ヒノキの香り豊かな風呂に入って、岩魚の塩焼きを食べた。
丘の上に建つ診療所の医師は京言葉で何時も優しかった。
鶴舞公園の春
ソメイヨシノ 花壇
柳青める
16日中津川で途中下車して
姪の二人の息子達にあった。
弟君の顔が、私の子供のころの写真にそっくりである。
常念の松本に向かって下る尾根筋の陰影が、季節を示す日時計のように変化して春を指している。
昨日諏訪市に行った。
諏訪湖は冷たい風が吹いて、湖面が沸騰したように白波が騒いでいた。
湖畔の観光客は、周囲の雪山から吹き下ろす風に向かって首をすくめていた。
季節はまだ決心がつかないように足踏みしているらしい。
今朝 北窓のカーテンに朝日がちらついているのを発見してホッとした。
午後から出かける名古屋では春の花が出迎えてくれるかもしれない。
山麓を流れる犀川のダム湖に飛来した白鳥達は、その多くが既に北へ飛び立っていったという。
山脈は新雪から残雪に変わり、雪形が楽しい季節に入る。
3月になればという期待は、半ば裏切られたけれど、半分は出来あがって、もう折り返しに差し掛かっている。
長い年月を最後の一ヶ月でとまとめようと思ったけれど、まとめるべき事柄など無いに等しいことに気付いた。
申し送り事項は日々に伝え終えた。
激しく変転する医療では、今日の常識は、明日の非常識になる。
乗鞍岳 北アルプスの南端峰
果てしない雲海を思わせる佇まいである
来し方の記 その3
通常私企業においては創業者の子弟が代々事業継承する習わしがありますが、中島尚誠堂直系である浩郎さんが後継を辞退されました。
東大在学中に羅感した疾病の後遺症が要因の一つだったと思います。
余談ですが、浩郎さんは現在フィレンツエ大学で教鞭を取る傍ら、著作翻訳等の著述で活躍しておられます。
先頃中澤八神製作所会長夫妻とともに欧州文化首都と称されるフィレンツエに遊び、浩郎さんの案内で、その壮大な文化と歴史に思う存分浸ることができました。
さて そのような経緯から直系以外から社長を選考する必要に迫られ、不肖私が三代目社長を継ぐこととなりました。第3の転機です。
1998年伸和医理科との合併が成就し、安定経営を目指す端著が開かれました。
しかしながら 合併に至る道程は厳しいものがあり、中でも中島会長が急逝されたことは大きな痛手となりましたが、創業家の全面的なご理解とご協力により遅滞なく事業を進めることができました。
先々代が創業以来心血を注いで育てた事業を、一介の従業員にすぎない人間に託されたその心情を思う時、責任の重大さをひしと感じました。
第4の転機です。合併を進める中で、前出の伸和医理科社長である八神製作所中澤肇社長と運命的な出会いがありました。
特筆すべき第5の転機です。
創業家から預かった会社は、合併によりその形態は大きく変化しましたが、その歴史文化を次代に継承できました。
これからも伝統を矜持し、益々発展されることを祈願しつつ、退職の挨拶とさせていただきます。
暮れなずむ空に
晴れわたった空にアルプスが影絵の背景のように現れて、町の灯が徐々に明るさをましてくる。
いつもと変わらない早春の暮色である。
正面の端正な△は常念、その左裾の終点あたりの小さな▲が槍ヶ岳
先日 会合の折り「槍ヶ岳山荘に予定より早く着いてしまい、やることがないので、その日のうちに3回登頂した」という話を聞いた。
人混みさえなければ4回でも5回でも登りたいと思う、多分その都度違った景色が堪能できたのだろう。
来し方の記(その2)
1961年頃、国民皆保険制度が整い、医療機器需要が急伸し好景気が続く中、先輩の何人かは独立開業して会社を去りました。
好況が災いし社員募集をかけても零細企業に人は集まらず、急遽技術職から営業職に移動して、信州大学を担当しました。
これが私の第1の転機です。
しかしながら 会社は堆積した様々な負要因から抜け出せず、業績の低迷が続きました。
社長は経営再建に腐心し、昵懇であったナベリン(株)に要請し、当社は経営の神様と言われた中村秀夫ナベリン常務取締役から経営指導を受けることになりました。
研修は毎月一回経営会議の中で開催され、「Plan Do Check Actionサイクル」「KJ分析」「ランチェスタ戦略」「経営分析」等を実戦に応用できるまで学びました。
徹頭徹尾一貫したのは「やると云ったら必ずやる」という中村常務の鉄の様な意志でした。
厳しい指導は7年間にもおよび、中島社長は地位を捨てひたすら指導に従い、中村常務は頑なに無報酬を貫き、ついに無借金経営を実現させました。
それは夢のような出来事で、第2の転機です。
福寿草
私の初出勤は昭和32年(1957)の3月11日で、今日と同じ月曜日であった。
不思議な巡り合わせである。
昨日までの馬鹿陽気が一転し、霜柱が立ち ようやく咲いた福寿草は霜に打ちひしがれた。
3月11日の常念 御殿場の孤高の富士山も素晴らしかった
3月末の退職に当たり、社内誌への寄稿依頼により提出したものを要約する。
その1
『振り返ると、入社以来既に56年が過ぎていました。
昭和32年(1957)3月、松本工業高等学校定時制電気科を卒業し、有限会社中島尚誠堂医療器械店へ技術職として採用されました。
社長以下13人が家族のように寄り添う会社で、営業職以外の入社は私が初めてと聞きました。
時代は高度医療機器の黎明期で、心電計をはじめガストロカメラ(内視鏡)がようやく一般に使われる様になった頃です。
会社はアフターサービスをテコに新時代に相応しい医療機器の販売を目指したものと思います。
修理対象機器は診断、治療、研究、測定と多岐にわたりました。
宇宙開発から派生した新テクノロジーはいち早く医療機器に採用され、工業高校出の若僧にとって、とても新鮮で魅力的な職場でした。
各メーカーの研修会に参加し、試行錯誤を繰り返しながら、年を経て、なんとかユーザーやメーカーそして同僚の信頼に応えることができるようになりなました。
重い工具鞄を担ぎ、バスや汽車に揺られて県内のみならず、遠く上越まで出張した事を思い出します。』
次期クラブ会長研修会in御殿場東山荘研修会終了
午前中で全科目研修が終わり、暑く感じる高速道を窓を少し開けて走った。
甲府に入ると気温が急激に下降し雨まじりの強風が吹き荒れる天候に変わった。
突風に車が持ち上がるほどだったたが無事帰還した。