「よし、このまま旧中山道をたどって京都まで行ったら、走破記念に、開花堂で、あの鈍く光る銅の茶筒を・・・」
と、思った翌日のことです。
朝ご飯を食べていると、
「これ、使ってもいいよ」
ヨメから手渡されたのは、適度な大きさの、抹茶が入っていた缶。
いやぁ、欲しいと思っていたのは、まさにこんなやつなんだよ、ありがとう~
・・・と思ったのですが。。。
確かに、大きさも丁度良いし、使い勝手も良いのですが、、、
う~ん、、、なんかイマイチ
プラスチックの蓋がいかにも安っぽいし、開けるときは「グニャア」っと捩れながらもったりと開く。
なんか、いかにも昔ながらの「缶」って感じ。
しっかり閉まってないせいか、少し匂いが漏れます。
抹茶の入っていたお茶缶を流用、ありふれていて、貧乏くさい気がする
これなら、缶コーヒーの缶の方が、高級感があるし、手触りもツルッとしていて、蓋を開けるときもカッチリしています
「缶コーヒーの缶か~ なるほどねぇ」という発想の適切さと、普通なら何も考えず棄てるモノをそのまま使う潔さもあります。
しかし、それよりも・・・・
こんなにピッタリの缶を入手してしまったら、
高価な開花堂の茶筒を買う、大義名分が無くなってしまうじゃないかぁ~
「おぬし、余計なことをしてくれたものよのぉー」
「ブシャッ グシッ ガシュッ」
消えてもらいました・・・