
グラフィックデザイナーで画家でもあったギャラリーたぴお元オーナーの歿後10年にあわせ、友人だったデザイナーでメタスクラプター(廃品を使って立体作品をつくる)のM.ババッチさん(札幌在住の日本人です)が企画した展覧会。
竹田さんは、カラーフィールドペインティングの抽象画や、風景を単純化して半抽象とした絵画なども手がけていたが、今回は約60点のほとんどすべてが肖像画。
一部、叔母や弟などもありますが、大半は自画像です。
自画像でいちばん多いのが1963~67年ごろ。
すこしやつれた面持ちから、ぎょろっとした目つきでこちらをにらんでいるので、ちょっと怖さも感じます。
竹田さんが20代で、まだギラギラしていたのでしょう。
その後、80年代以降から21世紀初頭までの自画像には、ユニークなものも多いです。
「80歳の青年八木保次と62歳の少年竹田博」は2003年、当時ギャラリーたぴおでよく開かれていたたぐいのグループ展「自画の形象展」で発表されたものでしょう。
当時竹田さんが取り組んでいた、オレンジや緑の暖色の茫漠とした矩形を組み合わせた画風によるものです。
また、病床の竹田さんから「たぴお」の運営を引き継いだ林教司さんによる肖像は、横向きで、哲人を思わせる相貌です。
今回の個展にあわせて100円(安い!)の図録が作られました。
それを見てあらためて驚いたのは、60年代初頭に竹田さんが日宣美に連続入選し、会員になっていることです。
「日宣美」とは、日本宣伝美術会の略で、戦後のグラフィックデザインの世界では大きな権威を持っていました。
1970年、若手の突き上げをくらって、解散してしまいますが。
その団体に、高校を出たばかりの二十歳そこそこの若者が会員になるというのは、すごいことなのです。
ババッチさんによると、当時の竹田さんは鼻高々で、ちょうど高度成長時代で広告業界も右肩上がりだったことも手伝って、かなりの仕事をこなしていたそう。
「広告界の不動産屋」の異名をとるほど、もうかっていた時期もあったそうです。
「ぼくも月100万円の仕事を回してもらったこともあった。竹田さん、東京に出ていたらまた違った展開になったかもしれないよね。でも、飛行機が嫌いで、東京には出ず、海外にも一度も行かなかった」
とババッチさんは語ります。
個展会場に、竹田さんの知己で亡くなった人々の名前が並べて書いてありました。
たぴお関係者もデザイン関係者も、ずいぶん多くの方々がこの世を去ったのだなあと、しみじみ感じ入ったのでした。
2017年11月16日(木)~21日(火)午前10時~午後6時(最終日~5時)
アートスペース201(中央区南2西1山口中央ビル5階)。
■TAPIO LAST 終章 (2016)
■華展 flower (2010)
■竹田博遺作展 (2008)
■2008年7月の遺作展
※過去のリンク先では、上の2本の記事が画像多くておすすめです。
■竹田博さん、さようなら
※いわゆる追悼記事。竹田さんの生涯について。
■漆山豊・横山隆・竹田博展(07年5月)
■下町のコレクション展2 (07年3月)
■竹田博展-叫びのバラード(07年2-3月)
■BOX ART展4 閉塞形状展(07年1-2月)
■LEBENS(生命・人生)展(06年6月)
■竹田博展「雑事のバラード」(06年)
■竹田博展「原色のバラード」(04年)
■自我の形象展 (03年、画像なし)
■竹田博展(03年)
■くりさわ現代アート展 (2002年、画像なし)
■竹田博展(02年)
■キャバレーたぴお(01年、画像なし)
■竹田博展(01年)
竹田さんは、カラーフィールドペインティングの抽象画や、風景を単純化して半抽象とした絵画なども手がけていたが、今回は約60点のほとんどすべてが肖像画。
一部、叔母や弟などもありますが、大半は自画像です。

すこしやつれた面持ちから、ぎょろっとした目つきでこちらをにらんでいるので、ちょっと怖さも感じます。
竹田さんが20代で、まだギラギラしていたのでしょう。
その後、80年代以降から21世紀初頭までの自画像には、ユニークなものも多いです。
「80歳の青年八木保次と62歳の少年竹田博」は2003年、当時ギャラリーたぴおでよく開かれていたたぐいのグループ展「自画の形象展」で発表されたものでしょう。
当時竹田さんが取り組んでいた、オレンジや緑の暖色の茫漠とした矩形を組み合わせた画風によるものです。
また、病床の竹田さんから「たぴお」の運営を引き継いだ林教司さんによる肖像は、横向きで、哲人を思わせる相貌です。
今回の個展にあわせて100円(安い!)の図録が作られました。
それを見てあらためて驚いたのは、60年代初頭に竹田さんが日宣美に連続入選し、会員になっていることです。
「日宣美」とは、日本宣伝美術会の略で、戦後のグラフィックデザインの世界では大きな権威を持っていました。
1970年、若手の突き上げをくらって、解散してしまいますが。
その団体に、高校を出たばかりの二十歳そこそこの若者が会員になるというのは、すごいことなのです。
ババッチさんによると、当時の竹田さんは鼻高々で、ちょうど高度成長時代で広告業界も右肩上がりだったことも手伝って、かなりの仕事をこなしていたそう。
「広告界の不動産屋」の異名をとるほど、もうかっていた時期もあったそうです。
「ぼくも月100万円の仕事を回してもらったこともあった。竹田さん、東京に出ていたらまた違った展開になったかもしれないよね。でも、飛行機が嫌いで、東京には出ず、海外にも一度も行かなかった」
とババッチさんは語ります。
個展会場に、竹田さんの知己で亡くなった人々の名前が並べて書いてありました。
たぴお関係者もデザイン関係者も、ずいぶん多くの方々がこの世を去ったのだなあと、しみじみ感じ入ったのでした。
2017年11月16日(木)~21日(火)午前10時~午後6時(最終日~5時)
アートスペース201(中央区南2西1山口中央ビル5階)。
■TAPIO LAST 終章 (2016)
■華展 flower (2010)
■竹田博遺作展 (2008)
■2008年7月の遺作展
※過去のリンク先では、上の2本の記事が画像多くておすすめです。
■竹田博さん、さようなら
※いわゆる追悼記事。竹田さんの生涯について。
■漆山豊・横山隆・竹田博展(07年5月)
■下町のコレクション展2 (07年3月)
■竹田博展-叫びのバラード(07年2-3月)
■BOX ART展4 閉塞形状展(07年1-2月)
■LEBENS(生命・人生)展(06年6月)
■竹田博展「雑事のバラード」(06年)
■竹田博展「原色のバラード」(04年)
■自我の形象展 (03年、画像なし)
■竹田博展(03年)
■くりさわ現代アート展 (2002年、画像なし)
■竹田博展(02年)
■キャバレーたぴお(01年、画像なし)
■竹田博展(01年)