ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「子ども手当」と「ガソリン値下げ」

2009年12月20日 | 日本の課題
 民主党の「政権交代」のスローガンに多くの国民が一票を投じて実現した、民主、社民、国民新党の連立内閣が船出してようやくようやく四ヶ月、100日が過ぎた。

 鳩山由紀夫首相、小沢一郎党幹事長の二大権力が、どのように日本の新しい政治を引導するのか、とっても注目を集めていたのだが、日米同盟に基づく沖縄普天間飛行場の移転問題をはじめ、なかなか方針が決定せず、もたもたと先延ばしのきらいが出てきて、「おっと大丈夫かいな?」というのが、多くの国民の本音に近い心境ではないだろうか。

 あの秋に展開された、所謂来年度予算削減を目標にした「事業仕分け」のプロジェクトに関しても、新人議員を含む多数の民主党議員が参加するはずだったのが、小沢幹事長の「鶴の一声」で、行革担当相、総務大臣、財務大臣の下、蓮紡議員や渡辺議員ら御馴染みの議員たちを中心に、集中的な審議、議論が行われて、今年の流行語的な言葉にもなったのだが、その成果は目標の3兆円には遠く及ばない結果で、なんだか期待はずれの感であった。

 しかし、民主党の政権交代を目指すスローガン的役割のマニフェストに掲げられた「子ども手当」「暫定税率の廃止」「農業所得の保障制度」「高校授業料の無料化」「高速道路無料化」などの財源を伴う大スローガン施策の可能性が少しつづ危ぶまれる兆しが出てきた。

 「子ども手当」に関しては、日本の将来の人口減に対処する必要から、所得制限を設けないと言っていたのに、やはり国民感情から年収2000万円以下の世帯に限るという案が急浮上している。

 また「ガソリンの暫定税率」の廃止については、現在のガソリン価格が一リットル120円前後に安定していることから、ガソリンの高騰期に緊急処置的な値下げが出来る法律改正として、「暫定」は廃止して新たなガソリン税率の改定など行って、現状のガソリン価格と税収を維持する案が検討されているという。

 また「高速道路の全面無料化」の公約も、全面的に無料化せず、地域限定で「無料実験を行う」とトーンダウンする様な様相になってきていて、確かにあれもこれもの予算措置には、財源が新たに必要なので、国債発行額を44兆円に抑えるとすれば、何かを削るかあきらめざるを得ないこととなるに決まっているのである。

 「あれもこれも」と風呂敷を広げた民主党の政権交代マニフェストも、予算獲得の現実的な作業の中で、難しい局面を迎えているのだが、ここでまた小沢一郎幹事長が登場して、「国民の声だ」と称して、「鶴の一声」を投じるとなると、鳩山首相を頂点とする「新内閣の閣僚たち」とは何なのかと半信半疑にならざるを得ない。

 いずれにせよ、民主党国会対策委員長の弁によれば、民主党のマニフェスト作成当時には、自民党が8兆円もの多額な補正予算を組むとは予想していなかったので、財源が不足する羽目になったという、言い訳をされていたが、納得のいかない他党の失態だとする「言い逃れ」にしか感じられなかった。

 堂々と不足は不足と言って、国民に理解を求め、更なるムダ削減の努力と精査を官僚や天下り機構と喧嘩してでも頑張っていただきたいものである。
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八百屋の面白さ。

2009年12月19日 | ガリバー旅行記
 私が有機、無農薬八百屋を始めて、何と15年がいつのまにか過ぎ、週末だけの移動販売という、とってもけったいな八百屋としてやってこれたのは、ひとえにお客様のお陰なのだが、年の暮れも近づいた昨日の夜と、今日一日、約50軒のお宅を訪問して、おしゃべりのしどうしだった。

 もともと他人様とお話するのが大好きな私なので、ついつい八百屋の商売?を忘れて話込むこともしばしばで、たくさんの楽しい話や知恵や情報もいただくことになるのである。

 先日も、あるお家に伺ってご年配の奥さんと話していたら、お嫁さんが車で帰ってこられて、「ういろは売り切れやった」と告げられた。

 まだ朝の11時過ぎなのに、「もう売り切れてしまう外郎とは?」と思ったので、尋ねてみれば、とんでもなく美味しい外郎で、名古屋の○○ういろなんかより、とっても美味しく、ここのを食べれば他のウイロは食べられないと言うのであった。

 そこで、早速インターネットで調べて予約して買いに走ったのだが、白と黒の二色の外郎のコクのアル美味しさに納得といった感じであった。

 しかし、進物にその美味しい外郎を贈ろうと箱詰めで白黒十個づつ買ったのだが、なにせ「生菓子」なので、賞味期限が三日しかないと表示されていたため、遠方へ宅急便で送っても、着いた日しか食せないのでは、先様には失礼かもしれないと思い、贈り物とはせず、八百屋のお客様に食べてもらおうと箱ごと持参し、数箇所でプレゼントし喜んでいただいた。

 
そんなこんなで、八百屋の商売から端を発したとは言え、いろんなお客さんの家でお菓子をいただいたり、中には「ちょっと小腹が空いたでしょう」と「お茶漬け」や「お握り」「お寿司」「デザート」を頂戴し、珈琲やお茶を共にして駄弁ってしまうこととなるのである。

 今日のお話のヒットは、やはり若いおばぁちゃんのお話で、ひ孫の男の子が家にやってきて、あまりバタバタと歩き回るので、「この子は何で忙しいのかいの?」と言ったというエピソードであった。

 私にも三歳手前の孫がいて、彼は我が家に来るとすぐさまに台所に出向き、テーブルの上の果物や菓子、時には食べ物を見つけては「○○たえる!」と言うのであるが、ちっともジッとしていることなく、小さいなりにトコトコと歩き回っているので、90歳を過ぎた大ばぁちゃんの「独り言」の様なクレームがよく分かる気がした。

 それにしても、新型インフルエンザが相変わらず流行っていて、お客さんのお子さんたちも次から次へと高熱に魘される一夜を送られたケースも聞いた。

 熱が出たが医者には連れて行かなかった晩に、40度を超える熱になり白目をむいて焦点の定まらない眼差しでふらふらになった我が子を見て、医者に行かなかったことを後悔している時、夫が近くのドラッグストアに飛んでいって、風邪薬のシロップを買ってきたが、我が子は飲まず、夫がやむを得ず飲んでいたという笑えぬ話もあった。

 とにかく、日常生活の中にある多種多様な悲喜こもごもの現実は、八百屋でなくても面白い、とにかく楽しい話が盛りだくさん聞けるのである。

 
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「糖尿、うつ、便秘」

2009年12月17日 | 感じたこと
 現代社会にとにかく多いと言われている病気に、癌や脳卒中などと共に、糖尿病、うつ病、便秘があるのではないだろうか。

 確かに「糖尿病」は血液中の糖分が異常に増加し、インシュリン等での治療を要する患者さんだけではなく、最近は「メタボ」と称される「太りすぎ」や「運動不足」から来る「不健康病」の様に言われている。

 また「うつ病」に関しては、町のあちこちに「心のクリニック」や「心療内科」と称される専門医が増えている現状から見ても、現代病のひとつとして社会問題化していると言っても過言ではないほど「予備軍」も含めると相当な患者がいる模様である。

 三つ目の「便秘」に関しては、病気という認識は薄いと思われるが、本人にとってはとっても深刻な症状であったりして、日々悩ましく思わざるを得ない、やはり「病気」ではないだろうか。

 突然、こんな話題を書くこととなったのは、実は私の古い友人とでも言うべきか、若い頃の小さな会社の同年輩の仲間だった、ある御仁を訪ねてビックリしたことに始まる。

 彼は二十代前半を私と同様に、音楽関係の小さな会社に勤務して、好きな音楽関連の仕事をしていたのだが、私が東京に出て以降、数年して会社を辞めて、友人の誘いもあって、中国、韓国、アメリカと仕事でしょっちゅう出歩く「皮製品とアパレル」の卸会社に移り、後には自らが独立し小さくとも年商何億という会社の社長になった御仁であった。

 しかし、いつの間にか音信もなくなり、「どうしているかな?」と時々は思い出してはいたが、数年前に突然電話がかかってきて、「今病院に入院している」というのであった。

 彼の話では、仕事は順調で高額の報酬も得て、経済的には全く困ってはいないのだが、まだ一人身であり、親父も亡くなったので寂しいとのことであった。

 そこで、私は数十年ぶりに彼の顔を見に会いに出かけて、一緒に食事をして驚いたことがたくさんあったのであつた。

 つまり、巨額の報酬を得て経済的には全くリッチなのだが、大きな立派なマンションの部屋での一人暮らしを続ける中で、極度の「うつ症状」が出て、毎日の積み重ねである食事は、外食かコンビ二の出来合いの弁当か惣菜で、家では炊飯器もなく、料理は全くしないというのであった。

 確かに奥さんも彼女もいなくて、一人の老いたおっさんが住んでいるだけの部屋なので、いたるところが散らかっていてはいるが、テーブルや床には、毎日の食前、食後の服用すべき錠剤の薬が大量に並べられていたのには、改めてビックリであった。

 よく話を聞いてみても、「邪魔くさい」とか「面倒だ」との返答が多く、自分の心身を病んでいるのに、自分の症状の改善のための「運動」や「食事」に時間や気を遣っていないことが明白だった。

 そこで、少なくとも「食事」について、ちゃんとした栄養バランスを考えて自分で少しは調理することや、そのための食材を届けてくれるシステムなどを紹介したが、全く「やる気なし」なのである。

 「糖尿、うつ、便秘」の三大疾病と付き合う生活から、脱出する術を少しでも考えないと、大変なことになってしまうと危惧しながら別れた。

 
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宇宙食アイス。

2009年12月16日 | ファミリーイベント
 先日の母の誕生日に兄弟姉妹がお祝い会に集まった際に、二番目の姉の夫であるW義兄が先日アメリカに出張した際のお土産として「NASAの宇宙食」を持ってきて、皆に試食として食べさせてくれた。

 「宇宙食」というイメージは、何かチューブ入りの味気ない栄養剤の様なものだと思っていたが、最近の「宇宙食」の進歩と言うか、多様なメニューの開発は驚くばかりのものがあるという。

 その中のひとつである、「アイスクリーム」がテーブルの上に無造作にほりだされたのだが、白とピンクの「ストロベリー味のアイスクリーム」だというのであった。

 小さな四角いかけら状の物体は軽くて、お干菓子の様であったが、口に含んでカジッテ見れば、なるほどこれが宇宙アイスかとなんとなく納得のいく甘くてとろけて行くような様子で、結構面白く食することができた。

 義兄はワシントンにあるアメリカ国立航空宇宙博物館、The National Air and Space Museumを見学したお土産に買ってきたらしいのだが、日本でも東京都江東区にある「日本科学未来館」でも宇宙食の体験やお土産品として売っているらしいものだった。

 私自身は、かつての「宇宙食」のイメージしかなかったのだが、そういえば最近宇宙ステーションに長期滞在した、日本の宇宙飛行士の若田さんやその前にディスカバリーで宇宙飛行をした野口さんたちは、とっても多くの日本製宇宙食も持ち込んで食していたという。

 1961年に人類初の宇宙旅行をした当時のソビエト連邦、現在のロシアのガガーリンさんは、あの有名な言葉「地球は青かった」という名文句を残した軍人でしたが、歯磨きチューブに似た容器にストローのようなパイプをつけて食べるクリーム状やゼリー状の味気ない食品が定番だったようです。

 これらの「宇宙食」は、赤ちゃんが最初に食する固形物としての「離乳食」のようなもので、宇宙飛行士たちにとっては、とっても評判が悪いものだったようです。

 しかし、1969年のアメリカのアポロ11号が月へ初めて着陸に成功した頃からの宇宙食は、お湯が使えるようになったために、乾燥させた食品を水で戻してスプーンで食べられるようになっていたそうです。

 1981年のアメリカのスペースシャトルの成功以降、どんどんと宇宙食は改良と研究開発が進み、1998年からの国際宇宙ステーションの建設が始まって、宇宙飛行士の宇宙での滞在期間が飛躍的に延びたこともあって、現在では地上の食事に近い状態で、300種類以上の宇宙食が食べられるようになっているそうです。

 レトルトから、水を加えて戻すフリーズドライ、半分乾燥させたフルーツや肉、そして新鮮な野菜、チョコレートやクッキーなどの菓子類、珈琲、ジュースもあるそうです。

 調味料の塩やコショウも飛び散らない様に液体となっているらしく、日本で開発された食品としてはラーメンやカレーも食されているようです。

 いずれにせよ、食品メーカーとの共同開発で、今後も多様な食品が「宇宙食」として食され、私たちにも食する機会ができるのは楽しく面白い体験だと感動しました。
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「就活」氷河期か?

2009年12月15日 | 日本の課題
 昨年のリーマンショック以来と言われている、世界的金融危機ならびに経済不況の影響が続いていて、日本経済も円高、株安、その上デフレ経済状況をかもし出す様な様相の中、来年度の就職戦線が大変になっているという。

 先日、高校生の就職内定率が3割強で、高卒で就職を希望する若者の約1/3しか就職先が決まっていないという現状が報告されていたが、今日のニュースでは来春卒業予定の大学4回生の就職内定率も低く、6割強の学生しか就職が決まっていないという。

 年の暮れが迫り、来春からの自分の仕事をする会社や職場がまだ決まっていない学生たちの不安とあせりは相当なものだろうと推察する。

 早ければ2年生の後半から大学卒業後の就職活動に備えて、情報収集や先輩の話や学生課、就職斡旋事情を気にしながら準備するという現状を聞いて私は驚くばかりだが、現代の学生たちにとってはまさに「就職氷河期」と言っても過言ではないくらいの厳しい状態となっている様である。

 私自身の場合は、全く就職活動らしき期間や意識はなく、会社訪問や資料を取り寄せたりして見学したり、説明会に行ったりという経験がないので、何とも不思議な感じすらするのだが、テレビや新聞の報道だけでなく、今私が仕事をしている職場のパートの社会人ですら、未だに「就活」をしている者がいるので、実情の一部は垣間見ることができる。

 それにしても、学生たちや若い就職希望者の男女の生活実態の一部を特集で報道していたテレビを見たが、親もこの経済不況のあおりを受けて、仕送りがやっとという厳しい中で、都会の一人住まいの家賃を払った上での残金で食事や日用品を調達しながら、多い場合は50社から80社もの説明会、応募、面接を受けても内定がもらえないという学生がいる事実は本当に厳しいし、氷河期というよりも悲惨な感じすらした。

 何とか大学には行かしてもらったが、親の脛をかじるのも後わずかだと思っていたのに、大学を卒業してもまともな就職が出来ないとすると、大変な経済的リスクが本人と親御さんには覚悟しなければならないことになるケースが想像できる。

 確かに一般の企業は、この経済不況下で求人を極力減らして、企業利益の確保と現状打破を画策している場合が多いが、学生さんたちも大企業や自分の理想とする職業選択や夢だけでは現実的な就職が適わない場合もあるのだと自覚してほしいものである。

 すなわち、安定的な就職口と言われた公務員や農協、自衛隊など公的度合いの強い地方の何処にでもある職場や大企業ばかりではなく、中小の地元企業や零細の個人企業や商店なども視野に入れた「就職活動」をしてもらいたいものである。

 つまり、自分が本当に何をしたいのかも分からない成年たちも多く、ただ名の知れた会社や企業への就職を夢見るのではなく、現実的に人を求めている中小、零細の企業のニーズと期待にも目を向けて、自分を求める職場を探してほしいと思う。

 そのために就職活動くのための塾や講習をうける学生が増えているらしいが、決してスキルやノウハウではない、自分らしさを表現し、心からの意欲と夢を語れる自分という個性をぜひアッピールしてチャレンジしてもらいたいと切に期待したい。

 
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「冬将軍」の到来か?

2009年12月14日 | 季節の話題
 いよいよクリスマスシーズンに入り、お天気も明日から冷え込みがきつくなって、本格的な「冬」の到来といった感じになるらしい。

 いつの頃からか、私たちもいよいよ「冬将軍」の到来かと普通に天気予報などで言っている言葉として使ってはいるが、そもそも「冬将軍」とは軍事用語で、1812年にナポレオンがモスクワを占領しながら、ロシアの冬の寒さに耐え切れず撤退したことにより、寒気の厳しさを擬人化して語るときに「冬将軍」と称する様になったらしい。

 ナポレオン率いるフランス軍はロシア遠征を開始し、42万から65万もの圧倒的な兵力で首都モスクワを占領したにも関わらず、訪れた冬の厳しさとロシアの時間稼ぎからくる物資の不足で、フランス軍は大量の凍死者や餓死者を出し、ロシアからの撤退を余儀なくされたのだそうだ。

 また撤退においてもフランス軍は、ロシアの執拗なゲリラ戦により、大量の損害を蒙り、フランスまで帰還できたのは、わずか数万人の兵士だけだったことから、「ロシア軍には負けなかったが、冬の厳しさに負けた」として、北国の寒波と降雪などに対して、畏敬の念をこめて「冬将軍」と呼ぶようになったらしい。

 その後の第二次世界大戦でも、ドイツ軍がソビエトに侵攻しモスクワを占拠する寸前まで迫ったのに、やはり冬期の天候の厳しさから頓挫したことから、「ヒトラーも冬将軍には勝てなかった」としばしば槍玉に挙げられている様である。

 日本では、「冬将軍」とは、厳しい冬の様子を表現し、特に北極気団、すなわちシベリア寒気団が南下しだす頃に、「冬将軍の到来」と天気予報などで告げられる様である。

 「冬将軍」が到来すると、日本海側に強い降雪をモタラシ、太平洋側では乾燥した北西風が吹き荒れるのだそうだ。

 標高の高い関東山地を越えて雪雲が東京にに流れこむことは少ないが、太平洋と日本海がもっとも接近する名古屋~敦賀間では回廊のような地形である伊吹山地が雪雲の通り道となり、太平洋側でも名古屋~関が原付近に雪を降らすことになる。

 朝鮮半島や中国東北部では、冬将軍は三寒四温となって現れるらしいが、冬将軍が到来すると、気温は10度以上低下し、されば元に戻る感じて、7月のソウルの月平均気温は東京とほぼ同じなのに、1月の月平均気温は札幌と同じくらいになるらしく、シベリアとの間に海がない朝鮮半島は北極気団に直撃されるためらしい。

 余談だが、ロシア軍がその天候の利を生かして、ナポレオンやヒットラーの軍隊に甚大な被害を与えて勝利したことは有名だが、13世紀に侵攻してきたジンギスハーン率いるモンゴル帝国軍には冬将軍が通じず、冬期のモンゴルはロシアに匹敵するくらいの厳寒になるため、モンゴル軍の寒さの慣れがロシア軍を圧倒したこともあったという。

 いずれにせよ、もうすぐ「冬将軍」の到来です。くれぐれも寒さ対策と共に風邪等にご注意を。

 今冬は、ユニクロの「ヒートテック」ウエアが大人気だそうですよ。

 
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シュトーレンで誕生祝い。

2009年12月13日 | ファミリーイベント
 師走も半ばとなったが、今年の冬は暖冬なのか寒さ厳しい冬なのか、よくわからないままクリスマスまであと10日余りとなった。

 私たちの母の93歳のお誕生日を前に、母の誕生日祝いの昼食会をしようと、今日の昼下がりに大阪天王寺の和風レストランに兄弟姉妹と母の8人が集まった。

 母は12月18日が本当の誕生日なのだが、大正5年の年の暮れだったために、父親が女の子は数え年で年を取るのでと、翌年の一月一日、元旦に出生届けを出されたらしく、戸籍上では大正6年1月1日生まれとなっている。

 母は私たちが幼い頃から、よっぽどそのことが気になっていたらしく、私の実際の誕生日は12月18日だと、機会あるごとに言っていたのが印象的である。

 今日は三週間ほど前に「母の誕生日昼食会」のお知らせを姉妹たちにしていたので、幸いにも各々の夫たちも参加して下さり、母を囲んで8名の祝会となった。

 私が母を迎えに行く途中で購入した「誕生日祝いの花束」を車の後部座席に母が見つけて、「今から墓参りに行くの?」と数回私に尋ねる度に、「いやお母さんの誕生日だよ」と言うのだが、「私幾つになったの?」、とまるで他人事の様に何度も尋ねたりして、可愛いおばあさんであった。

 実は、私の父、母にとっては夫であった父が亡くなったのが、ほぼ40年前の1969年で、父が61歳の時であったので、母には父の分も含めて長生きしてほしいと皆んなが願っている。

 幸い、母はここ数年認知症の傾向はあるものの、心健やかで体もなんとか健康に恵まれて日々を過ごしているので、私たちにとってはとっても嬉しい限りのお誕生日である。

 そこで、和食のフルコースを美味しく食し、皆で二時間余お話したりと時を過ごした後、一旦レストランを出て、向かい側の喫茶コーナーに移って、各々が珈琲かカフェオレを頼んで、私が持参した「シュトーレン」にナイフを入れて、母のお誕生日ケーキ代わりとクリスマス前の雰囲気を楽しむこととなった。

 「シュトーレン」は、最近は日本でも多くの人が知るドイツの伝統的なお菓子の一つとなっているが、そもそもクリスマスを前にした待降節、すなわちアドベントに少しつづ切って食べる、独特の甘みと風味のあるパンケーキなのである。

 たくさんのドライフルーツとナッツ類にリキュールやバターがふんだんに使われている、もともとは家庭的なドイツから生まれたクリスマスシーズンの菓子で、最近では日本でも家庭で焼かれる方が増えているらしい。

 とてもフルーティーで、甘さも抑えた「シュトーレン」は、旦那たちにも好評で、大きなシュトーレンをかなり分厚く8等分したのだが、美味しく全て見事に完食となった。

 ちなみに、私が持参したシュトーレンは、知る人ぞ知る京都美山の「ベッカライ・ヨナタン」製で、八百屋のお客様にも大絶賛の絶品であった。

 おかぁさん、お誕生日おめでとう。ぜひ長生きして下さい。
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神戸空港はいらん。

2009年12月12日 | 日本の課題
 政権交代で民主党を中心とする内閣になって、国土交通省の前原誠司大臣が、羽田空港を日本のハブ空港にしたいと述べて以来、日本航空の再建問題や地方空港の作りすぎが問題として浮かび上がってきた。

 関西圏においては、長年の反対や不要論をもろともせず、神戸沖に「神戸空港」が開港してしまい、従来の「伊丹空港」、「関西国際空港」と共に、関西に3空港という時代に突入してしまった。

 そもそも、何故に「神戸空港」が必要だったのか、日本の国内便、国際便共、今後の乗客予測や航空貨物予測もいい加減なままに、地域的利害と空港特別会計というシステムを背景に出来てしまった感の強い「神戸空港」が問題なのは自明の理である。

 関西空港、大阪伊丹空港、神戸空港の3空港のあり方について、官民で話し合う「関西3空港懇談会」という名の会合が12月14日に開催されて、「関空会社による3空港の一元管理」を目指すことが正式に合意する運びとなったと報道されている。

 しかし、果たして「神戸空港」を含む3空港が関西地域に必ずしも必要なのかどうかを議論し、ムダを無くして有効かつ効率よい航空行政を進めるためには、どう考えても「神戸空港」がいらないのが明らかなのではないだろうか。

 橋下大阪府知事は何故か「伊丹空港廃止」を前提とした国家ビジョンが必要と言えば、井戸兵庫県知事は伊丹空港廃止を前提とせず一元化議論をと語るし、肝心の政府の前原国交大臣は「神戸空港は市営なので除外して、伊丹と関空をどうするか考える」と言っている。

 「関西3空港懇談会」の座長である下妻博・関西経済連合会会長は、「将来の3空港の姿を順序だてて示し、問題を解決しないといけない」と意味深な言葉で語っているのだが、3空港の運営母体や関係者によって、互いの利害が食い違うために、なかなか思い切った結論が出し難い様である。

 政府は、関西国際空港会社の経営支援に来年度の要求額160億円に対して、75億円の予算を補給金として支給することを決め、財務省は「3空港の機能を明確にすることを条件」とするとして、明確な方針が確定するまでは予算執行をしないとしている。

 今まで関西の地方自治体も経済界も、この3空港問題に関しては具体的な議論もせず、結論を先送りし続けていたが、ここに来て予算執行を要求するためにも早急な機能の明確化と3空港も要らないとの方向性は明らかにすべきではないか。

 すなわち、3空港の一元化などという曖昧な形で3空港を存続させるのではなく、日本の人口も減少し航空乗客も徐々に減少すると予測される状況の中で、航空会社のコストや空港維持費も莫大な空港を、関西圏にいつまでも3つ維持して行く必要はないのである。

 まず、「神戸空港」は地方空港として国内外の一般航空乗客を運ぶ空港としては廃止し、航空貨物や大手航空会社の定期運行以外のニーズに応える空港に格下げして、大阪伊丹と関西国際空港の2空港機能を検討すべきだと断言する。
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『赤星憲弘』選手の引退。

2009年12月10日 | プロスポーツ
 阪神ファンのみならず、多くのプロ野球ファンと共に、阪神タイガースの赤星外野手が長年にわたって、自分の公式戦での盗塁記録数だけ、毎年秋に「車椅子」を贈呈していたことで知られる、多くの影のファンにとっても、寝耳に水の感のある赤星憲弘選手の突然の「引退」報道であった。

 私は今年の赤星選手の出場の少なさと共に、相当痛かろう首の痛みを押しての出自様の中で、本人がだんだんと「引退」という二文字をも考えるようになったのではないかと推察できてはいたが、こういう形で突如引退発表をすねるなんてことは、まったく予期できなかった。

 まだ野球と人生としては33歳の若さで、「来期も怪我さえなければやれる自信はある」という赤星選手自身のコメントからも、引退を決意せざるを得なかった「プロ野球選手」としての勇気ある決断が窺えた。

 2000年秋ののドラフト4位で、JR東日本から阪神タイガースに入団して以来、一年目から背番号53k赤星選手は「盗塁王」のタイトルを獲得する活躍で、新人王にも輝き、阪神ファンのみならず多くのプロ野球ファンに印象的な選手の一人となった。

 今年9月12日の甲子園での横浜戦で、センターの守備中にダイビングキャッチを試みた際に、過去に故障した首を再び痛め退場を余儀なくされ、その後一軍登録を抹消され、頚椎の椎間板ヘルニアの悪化と診断されていたが、その後の他の病院での受診で、「中心性脊髄損傷」と判明し、プレイを続けて悪化すれば、日常生活にも支障を来たす危険性があるとの判断で、本人と球団も相談し10日前に「引退を決めた」らしい。

 新人の2001年のシーズンから連続5年間は、セリーグの盗塁王になって、阪神タイガースには不足している「走のスペシャリスト」としても名を馳せて、阪神タイガースの野球を変えた部分もあり、2003年と2005年のセリーグ制覇にも多大に貢献した選手だった。

 特に印象深く記憶に残るプレイとしては、2003年9月15日に、阪神タイガースが1985年以来18年ぶりにセリーグ優勝を決めた試合で、当時の星野監督から「思い切って行け!」と耳打ちされて打席に立ち、サヨナラライト前ヒットを打って、ベンチ前で星野監督が赤星を迎えて喜びの表情で抱きしめた場面が心に残っている。

 赤星憲広選手の引退は、とっても寂しい限りだが、彼の人生はこれからも続くわけで、ぜひ怪我をきっかけにした損傷を直して、今後も野球界のみならず、多くのハンディを持つ人たちに「車椅子」をおくり続けた様に、社会と他人に役立つ人生を心して送ってもらいたいものである。

 あの大銀傘とナイター照明に照らされた、外野のセンター守備位置で、昨日最後の贈呈車椅子へのサインを済ませ、深々と頭を下げて甲子園球場に別れを告げた「赤星憲広」さんに多くのファンと共に、心からの拍手を送りたい。

 多くのハッスルプレイの勇気と盗塁の醍醐味を通じての感動をありがとう。感謝。

 

 
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「名古屋市議会」と市長の攻防。

2009年12月09日 | ちょっと可笑しいよ
 今年4月26日の市長選挙で民主党の推薦を受けて当選した、前衆議院議員の名物オヤジだった河村たかし氏が、市議会との政策論争?!で攻防を繰り返しており、市民税の一律一割減税を提案し条例化しようとしたら、議会が猛反発して今日妥協の産物の様な形で修整案が可決し、一見落着かと思いきや、川村市長が「再議」を申してで、もう一度市長提案を何とか可決させたいとの意思を貫き、議会解散か市長リコールか、ともかくスッタモンダデ揉めている。

 そもそも、名古屋市という大都市の首長に、民主党の総選挙勝利への大きな流れの中、一時は民主党代表選挙にも出馬かとも言われていた、名物おじさんの河村氏が突如立候補して、圧倒的市民の期待感で勝利をおさめ、市長になったまでは良かったが、その後は与党であるべき民主党の議員まで敵に回す勢いで政策をごり押ししようとして、議会とは相容れず混乱が続いているという。

 独特の名古屋弁丸出しで、国会議員時代にも一世を風靡していた感のある河村たかし氏だが、市長になっても一向にそのスタイルとキャラクターは変わることなく、一見パフォーマンスとも思える、政治手法で議会の多くの議員との対立及び溝が深まっているみたいである。

 確かに自分の思った通りにやりたい気持ちは分かるが、議員さんたちにも異見やプライドがあり、簡単には市長の提案にすんなりと賛成とは行かない場合もあると思うが、根気良く議論を重ねて、説得や理解を求めて調和も考えて実行への道を探っていただきたいものである。

 何処の市町村でも、ある程度は議会との対立や攻防がある場合はあるが、「言い出したことは何とかする」といった姿勢だけでは、無理な場合もあるのである。

 議員さんたちのプライドや立場は、相当な物でなかなか意見を変えたり、同調したりするには時間が必要な場合があるし、真っ向から対立した場合は、何かしらの妥協も止む得ないという、一歩でも前進させる気概は大切だが、市民の意見も聞かずの暴走では困るのである。

 やはり、大きな自治体の首長として、一歩譲って二歩前進という様な場合や形も了解の上で、少しつづ自治体改革、議会改革も進めてもらいたいものだと痛感する。

 私も16年間、四期の地方議員の経験から、河村市長の悔しさや憤りの一部は理解できるが、議員たちの面子やプライドたるものは相当なものなので、ここはしばらく一歩譲って二歩前進というステップを大切に歩んでもらいものだと進言したい気持ちでいっぱいである。

 マスコミ受けや市民の一部のファン、後援者のご機嫌や気持ちだけでなく、大半の発言しない多くの市民の気持ちも悟って、政治家としての賢明な選択をしてもらいたいものである。

 闇雲に、解散、リコール、再選挙などをちらつかせず、じっくり誠実さも見せてほしいものだと思う。市民も多くの国民も見ています。
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