ガリバー通信

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『赤星憲弘』選手の引退。

2009年12月10日 | プロスポーツ
 阪神ファンのみならず、多くのプロ野球ファンと共に、阪神タイガースの赤星外野手が長年にわたって、自分の公式戦での盗塁記録数だけ、毎年秋に「車椅子」を贈呈していたことで知られる、多くの影のファンにとっても、寝耳に水の感のある赤星憲弘選手の突然の「引退」報道であった。

 私は今年の赤星選手の出場の少なさと共に、相当痛かろう首の痛みを押しての出自様の中で、本人がだんだんと「引退」という二文字をも考えるようになったのではないかと推察できてはいたが、こういう形で突如引退発表をすねるなんてことは、まったく予期できなかった。

 まだ野球と人生としては33歳の若さで、「来期も怪我さえなければやれる自信はある」という赤星選手自身のコメントからも、引退を決意せざるを得なかった「プロ野球選手」としての勇気ある決断が窺えた。

 2000年秋ののドラフト4位で、JR東日本から阪神タイガースに入団して以来、一年目から背番号53k赤星選手は「盗塁王」のタイトルを獲得する活躍で、新人王にも輝き、阪神ファンのみならず多くのプロ野球ファンに印象的な選手の一人となった。

 今年9月12日の甲子園での横浜戦で、センターの守備中にダイビングキャッチを試みた際に、過去に故障した首を再び痛め退場を余儀なくされ、その後一軍登録を抹消され、頚椎の椎間板ヘルニアの悪化と診断されていたが、その後の他の病院での受診で、「中心性脊髄損傷」と判明し、プレイを続けて悪化すれば、日常生活にも支障を来たす危険性があるとの判断で、本人と球団も相談し10日前に「引退を決めた」らしい。

 新人の2001年のシーズンから連続5年間は、セリーグの盗塁王になって、阪神タイガースには不足している「走のスペシャリスト」としても名を馳せて、阪神タイガースの野球を変えた部分もあり、2003年と2005年のセリーグ制覇にも多大に貢献した選手だった。

 特に印象深く記憶に残るプレイとしては、2003年9月15日に、阪神タイガースが1985年以来18年ぶりにセリーグ優勝を決めた試合で、当時の星野監督から「思い切って行け!」と耳打ちされて打席に立ち、サヨナラライト前ヒットを打って、ベンチ前で星野監督が赤星を迎えて喜びの表情で抱きしめた場面が心に残っている。

 赤星憲広選手の引退は、とっても寂しい限りだが、彼の人生はこれからも続くわけで、ぜひ怪我をきっかけにした損傷を直して、今後も野球界のみならず、多くのハンディを持つ人たちに「車椅子」をおくり続けた様に、社会と他人に役立つ人生を心して送ってもらいたいものである。

 あの大銀傘とナイター照明に照らされた、外野のセンター守備位置で、昨日最後の贈呈車椅子へのサインを済ませ、深々と頭を下げて甲子園球場に別れを告げた「赤星憲広」さんに多くのファンと共に、心からの拍手を送りたい。

 多くのハッスルプレイの勇気と盗塁の醍醐味を通じての感動をありがとう。感謝。

 

 
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