ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

嘘、偽り、戯言、虚栄心。

2011年10月16日 | 感じたこと
 今夕、京都市内で私が学生時代に出会って以来、40数年友人だった一人の男性が亡くなったことを知って、大学時代の友人と相談して、故人を偲ぶささやかな夕食会を催すこととなって、ご遺族をふくめて10人ほどが集まった。

 夏の終わりに友人からTさんが6月に亡くなったことを知らされて、当然お通夜や告別式には参列できなかったこともあったので、せめていろいろとお世話になったり、思い出話も気軽に話し合える「偲ぶ会」などと仰々しいものではないが、会食を残されたご家族と共にしようということとなったのである。

 私の場合、亡くなった彼とは19の春に東京の下町で突然出会ったことがきっかけで、それ以来いろんな仕事や活動を通じて、行き来をしたわけではないのだが、エールを送られたり、時には突然ひょっこりとやってきては、彼特有の視点からの指摘やおしゃべりをして帰るという御仁だったが、非常にテレやさんでもあったが、人なつっこいとでも言うべき憎めない人柄で、長年のお付き合いとなったと思っている。

 出会った頃から彼自身は大変まめな男で、何かにつけてはがきや手紙を記したりすることにマメで、生涯に四冊の自叙伝とでも言うべき自費出版に近い出版物を刊行し、その都度一冊を私如き友人にも丁寧に贈呈本として送付してくれており、その書物に目を通せば、彼の生い立ちから東京、京都を中心とした交友関係や問題意識、家庭生活、奥さんや子供さんたちとの夫、父親としての関わりまで、ご自分の思いで記されているので、よく分かっているつもりであった。

 しかし、今日ご結婚される前から少しは知っていた奥様を除いては、二女、一男のお子さんたちには初めて直接出会ったこともあって、我々が出会ったきっかけや、それからの各種様々な彼とのエピソードや思い出が語られて、故人となった彼が家庭人としてどうだったかやお子さんたちにとっての「父親」としてはどうだったのかをも含めて、ザックバランに語っていただいたのであった。

 人は「外面」と「家庭での姿」が全く同じと思われる人もいるが、彼の場合はお子さんたちの口からの証言では、いわゆる「外面」はいいが、家庭では無口で、いつも好きなお酒を飲んでは炬燵で寝ていたり、仕事のない日は日中でも子どもが学校から帰宅すると酒を飲んで寝転んでいる父親像しか浮かばなかったらしく、父親が亡くなってから、生前の出会いや仕事を通じて関わりのあった人たち、友人、知人から亡くなった父親の全く知らなかった別の姿やおしゃべりを聞かされて驚くやら、自分たちの知らない父親像が初めて見えてきたと異口同音にご子息たちは語られたのであった。

 たまたま別の話題なのだが、私がここ二年足らずだが懇意にしていただいているご年配の奥さんが、昨日ちょっとしたお茶のみ話に語っておられたことと重なるが、そのご婦人の言葉によれば、多くの他人様の話の中には、たくさんの「嘘や偽り」があって、自分の存在や姿、人生、生き方、価値観に及んでも、自己演出したりされている場合がほとんどだと感じておられる様で、自分がありのままの生活や感じていることを語っても、その方々は「たぶん自分と同じ様に嘘か偽りだろう」と思われるみたいだと言われるのであった。

 つまり、多くの人たちは他人と出会った機会にいろんな話をするのだが、なかなか本音と言うべきか、正直な思いや現状を語ることなく、当然の如く「演出した自分」や少しでも「かっこいい自分」、あるいは「上等な自分」を語っているらしく、それが彼女にとっては「嘘であったり、虚栄心であったり」するのではないかと思われているらしいのであった。

 さて、私たちの日常生活において、皆さんもいろんなケース、出会い、友人、知人との関係をお持ちだと思うのだが、決して故人に鞭打つわけではないのだが、亡くなった彼を偲びながら、「外面、内面」の話を聞いていると、やはり人間は意識しなくても多少の自己演出や嘘や虚栄心のなせるわざかも知れないが偽りを語ったり、見せたくなる動物になってしまう性を持っていると言えよう。

 誰も悪気や人を陥れようとか騙そうとか思っているわけではないが、自分が一番大切であり、かわいい存在なのだろうと思われるのであって、いくら自分なんかと劣等感や人より劣っていると感じる面があったとしても、他人様に対しては少しでもよく見てほしいと、無意識に願い、意図的ではないがちょっとした嘘や装飾を自らの言葉や生き方、他人との接し方の中で演出してしまう生き物だろうと思うのであった。

 今回集った友人の中には、自分ほど自分をさらけ出して嘘偽りなく生きているものはいないと語っている男もいたが、失礼ながらそんな彼とて、無意識に自分を守るために触れてはほしくない話題や言葉があるのではないかと私は感じていて、決して脳裏に咄嗟に浮かんだ言葉もあったが、彼に対しては絶対に語らないという感じの対応をしている自分がいて、これは結局私自身も自分を最終的には守るための自衛策としての本能的対応なのだろうと、自問自答している自分がいたことは明らかであった。

 公人、私人などと世の政治家や著名人の一挙手一投足に関して、特にマスコミは報道したりしている様だが、果たして「真実を伝える」という使命を感じてはいるだろうが、実際のところは「真実」を伝えているとは言い難い記事や情報が多いのではないかという疑問や現実に、多く接する特に昨今だと思うのだが、人間の「嘘、偽り、虚栄心」などはなくならない「性」なのだから、いくら取材を繰り返したり「裏をとったり」したとしても、正確かつ真実な事実が見えて来ないという現実があるのではないかと、特に最近感じている私である。

 まったく関連性のない話題と思われる方々もおられると思うが、人間と言う生き物の性として「ショウガナイ」では済まされない面もあるが、人それぞれ思いは違うし、感じ方も違うのが当たり前なのではないだろうか。
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