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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ターニングポイント

2007年12月31日 | ガリバー旅行記
 一年を締めくくる「大晦日」。久しぶりにテレビではなくラジオで「紅白歌合戦」を聞きながら、あと数時間で今年が終わるという実感もないまま、このブログの原稿を書いている。

 今年一年の僕自身の十大ニュースを昨日書いたが、書きながら自分の人生に何度も「ターニングポイント」と言える人生の分岐点があったと改めて思ったのである。

 私の昨春の「市長選立候補」は、60歳を目前にした私自身の大きな「ターニングポイント」のひとつだったわけである。

 私の突然とも思えた市長選への立候補の決意を聞いて、友人、知人たちの中には、市議としての実績があるのだから、当選困難な「市長選」に出なくてもいいのにと言った人たちがいた。

 私は市議選に立候補して5期目の当選を果たしたとしても、私の意思に反した「無難に自分を守る」という行動として、満足いかなかったであろうと思うのである。

 すなわち、「勝ち目のない」選挙戦に挑んだという見方もあるが、私自身は「結果だけ」ではなく、挑戦する過程、プロセスの意味が重要だったのである。

 誰もが自分の限りある一つの人生を如何に生きるかと、時々考えたり悩んだりすることがあると思うが、私はあまり深く考えたり悩んだりはしない。

 その時、自分に与えられた可能性や立場から、「今だ」という感じの「時」を感じたら素直に、その「時感」に従うことにしている。

 つまり、難しく言うと不確実さや不可抗力なものにこそ、自分自身を奮い立たせ、掻き立てる何かを感じるのである。

 人は人生という旅を「自分の櫂」で方向付けして生きて行っているつもりなのだが、どっこい自分自身の力や努力や運は少しだけで、思うようには舟は進まないのではないか。

 つまり、自分の人生に課せられた「歩み方」は、自ずから自分自身が知らなくても導かれているのではないかと思うのである。

 すなわち、誰もが自分の意思と力で生きていると思っていても、自分自身の体すら自分の意思通りにコントロールできてはいないのである。

 「すべてに時があり、その時の出来事は時に叶って美しい。」

 聖書の言葉なのであるが、私の力の及ばない「時がある」のである。

 若者よ。不可抗力なことや不確実なことを回避して、無難な道ばかりを歩むなかれと私は言いたい。

 人生の旅には、たくさんのターニングポイントがあるので、それを無難に掻い潜ったり、避けて生きることはできるだろうが、そんな人生は「君の人生らしくない」と大きな声で言いたいのである。

 多くの出来事や人との出会いが、自分らしい人生のターニングポイントを演出してくれるのである。

 素直にポジティブに難を避けずに堂々と生きよう。人生のターニングポイントほど、その人が息づく「時」はなく、全てが素晴らしく美しいのである。

 皆様、よいお年をお迎えください。
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私の10大ニュース!!

2007年12月30日 | ガリバー旅行記
 あと一日少しで2007年もおしまいになろうとしている。

 テレビや新聞マスコミは、今年の十大ニュースや主な出来事を何度も何度も編集したビデオや写真を中心に報じている。

 今年を表す漢字が何と「偽」であり、二位が「食」、三位が「嘘」だったという世相からして、今年ほどろくな年でなかったと感じている人たちが多いのではないだろうか。

 しかし、景気や政治が悪くても、また世の中に凶悪、非道の事件が多くとも、ささやかな幸せに包まれてつつがなく生活している庶民にとって、一年間にはそれぞれの喜怒哀楽があって、充実した一年だったはずである。

 私にとっても大きな節目の今年であったと自認しつつ、ゆっくりと振り返るほどの時間はないが、思いつくままに「私の10大ニュース」とやらをご披露したいと思う。

 ①4月の京田辺市長選挙に立候補、地方議員としての4期16年を終える。
 ②7月11日に、満60歳の「還暦」の誕生日を迎える。
 ③息子の結婚披露の会を5月京都、9月沖縄で開催。
 ④二人目の孫が3月末に誕生。男の子でR君と名づけられた。
 ⑤久しぶりの会社勤め、おっさんフリーター5月より始動。
 ⑥内モンゴルの旅20周年。留学生B君の故郷での結婚式に和服で参列。
 ⑦母が70年住み慣れた自宅を離れ、有料老人ホームに入居。
 ⑧家内も10月に「還暦」の誕生日を迎えた。
 ⑨MIXIの仲間が115名になり、1万アクセスを突破。
 ⑩やおやガリバーが9月に14年目に突入。
 ※番外・膝痛及び奥歯の被せを歯科で直したのに、二日後再び取れた!?。

 以上、思いつくままに書いたが、それぞれに深い思いと感想があるのだが、それについては、また別の機会に記すこととしよう。

 一年の締めくくりの「大晦日」まで、あと一日と数時間になった今日は、大阪にいる母を尋ねて、一年の最後の父の墓参りに一緒に出かけた。

 少なくとも、一年で春分と秋分の「お彼岸」の二回と「盆、暮」と言われる時期と、年四回は「墓参り」に行きたいのだが、今年はたぶん「秋の彼岸」には行けなかったので、今日は入念に草抜きと墓掃除をした。

 91歳になった母は、ちょっと曲がった腰をかがめながら、「私がもうすぐ住むところやから綺麗にしとかな」と言うので、昨年より流行った曲の「千の風になって」の歌詞を引用して、「ちがうよ、お墓の前で泣かないで下さい。私はそこにはいません」なんて話していたが、母は補聴器の調子が悪く聞こえていなかったみたいであった。

 とにかく、私の十大ニュースは、ささやかなものだが、年の暮に舞い込んだ喪中の葉書が40枚を越えたことでも、今年は多くの人との別れの年ともなった。

 2008年は新たな良い年にしようとささやかながら決意し、皆さんのご健康とご多幸を祈って、年賀状をたくさん投函したのである。
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何故、八百屋をやってるか。

2007年11月10日 | ガリバー旅行記
 度々、私のブログ「ガリバー通信」には、「やおやガリバー」という、有機農産物と無添加食品の「八百屋」が登場する。

 今年で14年目を迎える「移動宅配」で、週末だけ営業の「変わった無添加無農薬やおや」なのだが、よくも続いているものだと我ながら感心しているのである。

 そもそも「何故に無農薬やおやを始めたのか」とお思いの方もいると思うが、きっかけは「夢」であった。

 私の30代の頃の仕事場であった「プレイスクール」と言う名の子供達の遊び場活動と私立の幼稚園がある「雑創の森学園」に、ある時から「有機八百屋パンプキン」のトラックが週に二度ほど来ていて、私も時々お豆腐とか納豆を買っていたのである。

 この「パンプキン」の主人だったTさんが、私が縁あって毎年の様に行っている「中国・内蒙古」への旅に92年に娘さんと共に参加されたが、彼はモンゴル草原の川でイトウを釣りたいと願っておられた。

 しかし、私達の行った中国内蒙古の草原の小さな川には「イトウ」は生息しておらず、彼は残念な思いで帰国したのである。

 その彼が翌年に突然心臓発作で若くしてこの世の人でなくなってしまい、翌年94年の夏に、近くのホテルで「一周忌の記念会」を奥様が催された時に、私はスピーチをして、「彼の叶わなかった願い」を内モンゴルの人に、彼の愛用していた「釣竿」を託してはどうかと提案したのである。

 その年の内モンゴルツアーに、私は未亡人となられた奥様の了解を得て、彼の釣道具を持って再び蒙古草原に行き、蒙古族のおじさんに「イトウ」を釣れたらと託したのである。

 その年のある夜、私の夢枕に、亡くなったTさんが現れて、枕元でニコニコと笑っておられるだけで、死人に口なしとはよく言ったもので、何も話されなかった。
 
 
しかし、私は朝目覚めて、その夢をはっきりと覚えていて、何故に彼が私の夢枕に表れたのかと思いをめぐらせると、そうだ彼が「ガリバー、八百屋さんやらないか」と伝えに来たと感じたのである。

 早速京都の有機八百屋の先駆者であるI氏に電話したところ、彼曰く「昨晩、Tさんが来てくれていたお客さんの一人から、子供がアトピーなので食材に困っているので、来てくれないか」という電話があったと言うのである。

 全く偶然だったかもしれないが、やりたいと思った私に呼応する様に、来てほしいというお客さんからの要望があり、中に立つ八百屋さんも協力していただき、私はとんとん拍子に、ひき売りの経験をさせてもらい、ひきうりの中古車も譲っていただき、9月から営業を開始したのである。

 それから14年、いろいろあったが、何とか毎週金曜日と土曜日に、ひき売り移動宅配の有機八百屋を続けて来れたことは幸いだし、夢のような話なのである。

 「夢」は、現実を先取りした形で、私たちに人生を示唆してくれたり、教えてくれたりもする、とんでもない真実の場合があるのである。
 
 
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ハロウィンとかぼちゃ

2007年10月30日 | ガリバー旅行記
 明日、10月31日はHalloween、ハロウィーンと呼ばれる、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩の英語圏での伝統行事の日である。

 日本でも、十数年前から商店街や百貨店を中心として、黄色い大きなかぼちゃを飾って、「ハロウィン」を題材にして、大いに盛り上げてセールに繋げようとするイベントが盛んに行われるようになっている。

 でも、クリスマスやバレンタインと比べると、どうもよそよそしく、もうひとつ盛り上がらないのは、この日が西洋人にとっては、日本人の「お盆」の様に、死者の霊が家族を訪ねる日であり、精霊や魔女が出てくる日とされていて、これらから身を守るために、仮面を被ったり、魔女除けの焚き火を焚いたりする儀式めいた習慣があるためである。

 これに因んで、31日の夜にジャック・オー・ランタン(お化け蕪)と呼ばれるものを作って、魔女やお化けに扮した子供たちが、「お菓子をくれなけゃ、いたずらするぞ」と唱えて、近所の家を一軒づつ訪ね、家庭ではお菓子を作って、子供達のもらって来たお貸しを持ち寄り、ハロウィンパーティーを開くと言う。

 ハロウィンのテーマに関連したものには不気味なものや怖いものが多く、幽霊、死、魔女、こうもり、黒猫、ゾンビ、ドラキュラ、フランケンシュタインなども登場し、ハロウィンの時期には、これらで家を飾るのである。

 黒とオレンジ色が伝統的なハロウィンの色で、英国やアイルランドでは元々蕪(かぶら)がジャック・オー・ランタンの素材なのだが、移民したアメリカでは、刻みやすいカボチャを刻んで、怖い顔や滑稽な顔を作って、悪霊を追い出すために、家の戸口の上り段に置いているらしい。

 これらのハロウィンの文化と習慣は、古くは古代ケルト人たちによって受け継がれた歴史があり、11月1日を新年とするサウィン祭を前に、収穫感謝祭でもあるハロウィンの夜には、アイルランドの司祭たちは、火をつけて作物と動物の生贄を捧げ、火のまわりで祭司たちが踊り、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節の到来を意識したのだそうである。

 すなわち、北半球の緯度の高い北欧地域での自然、気候、宗教、文化を背景にして発展、伝承されてきたマツリゴトを、日本はアメリカから、その表面的なデザイン、カボチャランタン、魔女、イメージだけを借用して、イベント化して楽しもうとしているだけなのである。

 クリスマスそのものも、キリストの誕生日というよりも、年末大売出し、セールとサンタのプレゼント機会として利用しているだけの「日本の安易なイベント」騒ぎの代物なのだが、いつのまに「魂のない仏さん」も、日本的なイベント、習慣として定着するのだろうか。

 と言う私も、子供達の遊び場活動をしていた十数年前に、ハロウィンカボチャのお面を被って黒装束で、市中を行進するパレードに参加したことがあるので、偉そうなことは言えないかもしれない。

  

 
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沖縄の食文化

2007年09月25日 | ガリバー旅行記
 昨年一月以来の沖縄の旅は、たった二泊三日であったが盛りだくさんの思い出と出会いの旅となった。

 特に、私達の着いた日の夕食からの食卓は、琉球食文化の多種多様なもので賑わい、関西の食生活には珍しいものの連続となった。

 まず、沖縄銘菓「ちんすこう」の手作り体験が、琉球料理専門店での食事の前に待っていて、同量の小麦粉と砂糖に豚のラードを1/2加えた原材料を、練って型にはめたものを各自のオリジナルとしてクッキーの様に焼いてくれるサービスがあり、琉球踊りなどを見ながらの食事後のお土産となっていた。

 いまでも「ちんすこう」は、沖縄の菓子土産の定番のトップにあり、黒糖、紅芋、パイナップルなどの多種多様な味と色の種類があって、お年寄りから子供まで喜ばれる。

 さて、肝心の琉球、沖縄料理に欠かせないものが、豚肉と海の幸、そしてゴーヤではないだろうか。

 豚肉を主に食する沖縄料理だが、沖縄そばにのっている豚肉の脂ののったラフティ等や、各種チャンプルにも豚肉が多く使われているが、沖縄人は豚のホルモンもよく食べるようである。

 まず「中味汁」と呼ばれる、豚のホルモンでだしをとり、ホルモンと共に食べるすまし汁は、絶品のようである。

 そして、有名なのが「ミミガー」ヤ「チラガー」と呼ばれる、豚の「ミミ」や「顔」そして「足」などの部分をうまく料理に使って食べる。

 昔、私も学生時代に東京の山谷で、「とん耳」「とん足」「とんテール」等と言ったホルモンをドヤ街で食したものだが、沖縄では立派な食材として堂々と「市場」にドンと並んでいる。

 今朝、那覇市の台所を預かる中心でもある、牧志公設市場を覗いてみると、昔と変わらぬ「豚の顔」、つまり顔の皮、「チラガー」が見事な姿でサングラスをかけて、店先に飾ってあった。

 お店の人に声をかけると、毎日新しい「チラガー」を飾っているとのことで、これを食べるとコラーゲンが多くて、お肌がつるつるになるとのことであった。

 牧志市場の二階の食堂で「沖縄そば」を食べながら、多くの観光客の食事を眺めたが、豚の顔の皮、すなわち「チラガー」を食している人にはお目にはかかれなかった。

 また海の幸も豊富で、うみぶどうやもずくの天ぷらも大変美味しく、亜熱帯の海に生息する数々の色とりどりの魚や大きな貝なども沖縄人には日常的な食材となっている様子であった。

 飲料の自動販売機には、トロピカルドリンクと共に、ジャスミン茶の「さんぴん茶」や「ウコン」入りのお茶も沖縄限定品としてシークァサージュース等と並んでいた。

 沖縄特産の珍しい食材などを市場で見ていると、ウチナンチューにとっては普通の食材だろうが、ヤマトンチューには特別の長寿、健康の秘訣に結びつくような食材だと強く感じずにはいられなかった。

 

 


 
 
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砲丸投げって言えば。

2007年09月22日 | ガリバー旅行記
 真夏の「大阪国際陸上」が終わって数週間が経ちましたが、日本は女子マラソンの土佐礼子選手が最終日に「銅メダル」を獲得するに留まりましたが、観客も少なく、テレビの中継の「織田裕二」の元気さばかりが目立った大会でした。

 私も大阪人でありながら、高い入場料の大会を直接見に行くつもりは全くなく、テレビで男子ハンマー投げの室伏選手だけは、奇跡的な?日本新に期待を抱いて応援していました。

 ところで、女子「砲丸投げ」を観ていた観衆はどれほどいたのでしょうか。

 近くに住む私の友人のお嬢さんが中学校の陸上部に入って、「砲丸投げ」を始めたことを聞いて突然、大阪の昭和中学で女子砲丸投げをしていた同じクラスの「多賀ちはる」と言う名の女の子のことを思い出しました。

 「砲丸投げ」という地味な投擲競技はなかなかトライする女子は少ない中で、彼女は、当時の中学生の大会では、いつも優秀な成績を収めていて、体格がとっても大きく、率直に言えば筋肉質だとは思いますが太っていました。

 今回の世界陸上で女子の砲丸投げで優勝したのは、ニュージーランドのバレリー・ビリ選手で、何と今期世界最高記録の20.54メートルを最終の六投目に投げて大逆転で金メダルをとったのです。

 彼女は、高校時代にクラスで一番体格が良かったため、教師の薦めで「砲丸投げ」を始めたのですが、「15歳の時に亡くなった母のいない悲しみを投げることに打ち込んで紛らわせてきた」と語っていたそうです。

 今年の5月には父が他界したために、コーチからは「お前がここにいることを証明し、両親のために投げるんだ」と励まされ、「とにかく遠くに投げることに集中した」と力強いフォームで、自己最高の投てきをしたそうです。

 彼女は歓喜の勝利インタビューで、今は亡き両親に「父さん、母さん、アイラブユー!」と叫んだそうです。

 逆境を覆す強さを鉄球に込めたのは、男子の砲丸投げに優勝した、アメリカのリース・ホッファ選手も同じで、4歳の時に家が火事で焼けたために孤児院に預けられ、その後両親とも暮らすことなく養子に出されたらしいのです。
 
 彼も「今の諦めない自分は、子供のときの苦労の経験があったからだ」と世界一の頂点に立って、険しい道程を振り返って言ったとのことです。

 すべての「砲丸投げ」の選手に、そんなエピソードがあるとは限りませんが、中学時代の砲丸投げの選手であった「多賀みはる」さんは、今どうしているのだろうか。

 知っている方がおられたら教えてください。

 たぶん、砲丸投げの投擲のごとく、力強い人生を間違いなく送っておられることだと推察しています。

 ご近所の砲丸投げで汗する中学生の娘さんも、力強い人生を歩むことだと思います。

 

 
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豊臣秀吉に似てる?

2007年09月17日 | ガリバー旅行記
 最近は、夜休む前にパソコンを開けて、昨年から仲間になった「ミクシィ」と呼ばれるSNS、すなわちソーシャルネットワークサービスとやらを通じての日記やメッセージに、毎日の様に目を通すことが習慣となっている。

 二,三ヶ月前から、私のパソコンの個人的なメールの送受信が故障して、どなた様からのメールも届かないし、私からもメールを送れなくなっていて、このミクシイを通じてのメッセージやコメントが、現在のパソコンの唯一の個人的ツールとなっている。

 携帯メールは迷惑メールなどへの防御策で、限られた家族、親族、友人、知人のみの送受信に限られている状態にあるので、益々電話以外のコンタクトは、現在はミクシィのみなのである。

 そんなパソコン環境の中で、よくマイミクを通じて定番のアンケートや質問が舞い込んで来るのだが、どうも大抵の質問には答えないし、あまり面白いと思わない場合が多い。

 しかし、今流行の「脳内メーカー」は遊んでみて、いろんな友人、知人との相性の様なものを想像したりもした。

 久しぶりにトレンドランキングの二位にあった「戦国の武将で言うと、誰に似ているのか?」という、性格テストのようなお遊びに出会って、やってみると「豊臣秀吉」と出た。

 織田信長、徳川家康をはじめ、伊達政宗、上杉謙信、武田信玄らも含む、多くの戦国大名が登場するみたいだが、たった25の質問に4択でチェックを入れるだけで、「あなたは○●に似ています」と判定される遊びである。

 確かに戦国大名の中では何となく豊臣秀吉公が、大阪生まれの私にとっては馴染み深く、小説やドラマになったイメージからも好きな部分がある歴史上の人物ではあったが、お遊びとは言え、自分の性格や個性が、まさか太閤さんに似ているとは思わなかった。

 暫く思いを「豊臣秀吉」という人物像に合わせてみると、この能力診断で高得点であった、才能90点「すばらしい」という結果に、何とも不思議な共通点があるのかもしれないと自問自答している。

 音楽ができるとか人を笑わせるとか、ちょっと個性的な才能だという。豊臣秀吉が天下をとることができたのも、個性的な才能を十分発揮することができたからだそうだ。

 しかし、「武力」「知力」「魅力」「政治力」という他の成績は、全て65点か70点で、「よくできました」とあるが、世間を生き抜く術というか、それなりの心得、経験に基づく「生きる力」はあるのかも知れない。

 でも、今日、「おっさんフリーター」の職場の責任者の女性から、ガリバーさんは素直なのはいいが、対人関係では「ケンカをしそうで危ない」と言われてしまった。

 さて、豊臣秀吉になるか、徳川家康を目指すか。それが問題だ。なーんちゃって!!!。久しぶりにネットで遊んだ夜だった。

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阪神ついに巨人と首位決戦へ!

2007年09月06日 | ガリバー旅行記
 我が阪神タイガースは、ついに今晩の横浜ベースターズ3連戦3連勝で、今期初の7連勝で、首位巨人に肉薄し、明日からの巨人3連戦が、今期初の天王山とも言うべき「熱い戦い」となる。

 今年はセリーグも「クライマックスシリーズ」とやらの採用で、少し勝手の違うペナントレースの終盤戦に突入しており、5月頃には最下位に甘んじていたこともある阪神タイガースも、交流戦での負け越しで今年は厳しいシーズンになるとファンは予想していた。

 しかし7月の金本選手の3位通過が目標ではなく、あくまで一位通過を目指しているというコメント以来、脅威の戦いぶりで快進撃をして、ついに昨日2位に、そして明日からの巨人三連戦で首位を窺う勢いである。

 この横浜三連戦も決して強豪チームの横綱相撲ではなく、相手のミスに乗じた得点やら、最小限のチャンスを生かしての得点で、辛うじて勝つという離れ業の連続で繋いできた。

 選抜投手が何とか5回か6回を最小失点でしのいで頑張ってくれれば、後にいわゆるJFKと称されるウィリアムス、久保田、藤川という鉄壁のリリーフ陣がいるバターンで、ひとつひとつ勝利をもぎ取ってきたのである。

 いよいよここに来て、この三枚ストッパーだけでなく、渡辺、ダーウィン、江草らの中継ぎ陣も健在で、橋本健太郎も帰ってきているし、先発陣も、下柳、ボーグルソン、杉山、上園に、能見と安藤が復帰していて完璧になっている。

 あわよくば福原とジャンが復帰すれば鬼に金棒の投手陣であり、どの球団とも引けをとらない布陣である。

 また打撃陣が少し弱いのだが、今岡や林が抜けた後を、若い待望の大砲桜井広大と葛城、高橋などの移籍組みのベテランが穴埋めしている。

 代打陣も豊富であり、先にあげたベテラン移籍組みに加えて、16年目で1500試合出場を果たしたベテラン生え抜き桧山と浜中がドンと控えていて、狩野、野口のキャッチャー陣も矢野を支えていて頼もしい。

 この様な素晴らしいチーム陣容で、金本、赤星、鳥谷、関本、シーツ、矢野などのレギュラー陣も、余裕で戦うことができるチームと成長していると思えるのである。

 今年のクライマックスシリーズへのマジックが今夜後19と点灯し、残り試合24となった現在、のこり試合の勝敗というよりも、勢いで我が阪神タイガースが03年、05年についで奇数年の2007年もセリーグ制覇に向けて、確実に歩んでいるように感じる。

 ファンのひいき目も少しはあるが、確実に勝利の予感が高まる今夜の7連勝の勝ち振りであった。

 巨人、中日、頑張ってチョー大。お疲れ様。

 

 
 
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バックトゥーザフューチャー

2007年09月04日 | ガリバー旅行記
 昨夜と今夜、NHK衛生放送で、あの懐かしいスピルバーグが総指揮をつとめた作品「Back to the Furture!」が久しぶりに上映されていて、ついつい楽しんで観てしまったのである。

 1985年作品らしく、第一作ではドグの発明した「タイムマシーン」で1955年の過去に戻って、自分の両親が出会う場面を息子である主人公マーティーが演出したり、第二作では2015年の将来に出かけて、自分の将来や家族の不幸を見て、遡って修正したりと大活躍の映画である。

 皆さんもたぶんご覧になった方も多いと思いますが、こんなにも簡単に失敗も無く映画の様に「未来、過去、現在」を行き来できる「タイムマシーン」が在るならば、少々費用はかかっても行ってみたい過去や未来があるのではないでしょうか。 
 しかし、果たして自分の過去に行って、自分の人生の失敗や不幸を取り戻したり、修正できたとしても、それは決して愉快なことではないのではないでしょうか。

 よく話題になったりするのは、もし出来ることなら「あなたは何時の自分に戻りたいですか?」ということですが、私は決して過去の自分に戻りたいと思ったことは一度もありません。

 今から20年程前に、その当時20歳そこそこの沖縄からボランティアで、私が仕事として関わっていたプレイスクールという、子供達の遊び場活動にやってきていた青年が、車に同乗している時に私に、「ガリバーさんは、人生で何時頃が一番良かったですか?」と聞いたのでした。

 私は30代後半だったのですが、すかさず「今が一番!」と答えると、彼は驚いた様に、「大抵の人は、小学校時代とか中学校時代と言うのに・・・」と首をかしげていました。

やはり私は歳をとっても、いつも「今が一番」だと言いますし、そう言える自分が好きですし、今後もそんな人生を送りたいと思っています。

 ところで、今年の夏の恒例の「内モンゴルの旅」で、一瞬の出来事でしたが、不思議な「バックトゥーザフューチャー」とでも言える体験をしました。

 5泊6日のモンゴル草原でのゲル生活を終えて、内蒙古自治区の大都市「赤峰市」に出て、ホテルで宿泊しシャワーも浴びて、翌日、繁華街といえる下町をブラブラと散歩している時でした。

 屋台のお菓子や果物を買って、狭い路地を歩いている時に、後ろから来た自動車から、見知らぬ若者がハンドルを握りながら「ガリバーさん!」と声をかけてきたのです。

 私は全く、その青年が誰かはわかりませんでしたが、愛想よく笑顔で目線を送ってきたので、こちらも笑顔でニーハオと挨拶はしました。

 すると、車を降りてきた青年が、「スチント」と言う名を口にしたのです。

 何と12年ほど前の私の草原ツアーに、たぶん14歳くらいで同行してくれたことのある、馬頭琴奏者の若者だったのです。

 何と現在も赤峰市の楽団で馬頭琴を弾いていて、26歳になるというのです。

 偶然の出会いだったのですが、市内だけでも60万人もいる大都市の中で、何と12年ぶりの再会となったわけですが、驚くやら、バックトゥーザフューチャー
としか思えない様な光景となりました。

 
 
 
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小田実氏の死

2007年07月30日 | ガリバー旅行記
 自民党の歴史的大敗という参議院選挙結果の大騒ぎの中で、私達の青春時代の「何でも見てやろう!」の著者で、後に「ベトナムに平和を市民連合」を結成し、「週間アンポ」等の発行や、多くの小説、エッセイ、そして阪神大震災を契機とした、自然災害被害者への公的救済法の成立にも努力した「小田実氏」が胃がんのため今朝帰らぬ人となった。

 私達の世代の「海外への渡航」の夢と現実のきっかけは、小田実氏が東大を出てフルブライト奨学金でハーバード大学に留学するという秀才だったのに、世界を若い身ひとつで貧乏旅行するという「何でも見てやろう!」という精神に勇気づけられたことであった。

 また、60年代後半の学生を中心とする「ベトナム反戦、安保闘争世代」を精神的にも活動的にもリードした「べ平連」の中核的リーダーであり、独特の早口の大阪弁で睨みを聞かしての弁舌は、他を寄せ付けないものがあった。

 お年を召してからも、西宮のお家が阪神淡路大震災で崩壊するという被災経験者として、自治体や政府に被災者救援のための公的支援を訴え続け、一定の救援策を獲得する原動力となった。

 彼の眼光はいつも鋭く、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたが、私は阪神淡路大震災後の神戸の町並みを市民派議員の仲間達と見て回った際に、ご一緒させていただき、少しお話させていただいた記憶があるが、その時の彼は言葉はきつく厳しいのだが、大阪人としてのウイットに富んだ冗談も飛び出して、屈折した中に、おもろいおっさんの一面を垣間見たことがあった。

 50歳にして北朝鮮籍の女性と結婚されたこともあって、益々韓国、北朝鮮を含むアジアにおける、日本の戦後処理や責任問題について鋭く言及し、一方ドイツ、アメリカなどと比較しながら、日本国憲法の「戦争放棄」の精神の大切さと非軍事化の政治的主張は強く持っておられた。

 今から振り返れば、土井たか子社会党時代に東京都知事候補として推されたことがあって、小田氏自身もその気になられたと後に聞いたが、結局政治家としての舞台には一度も立たれず、常にアウトサイダーとしての鋭い論客であった。

 関西の革新的市民運動の常に中心的存在として、小さな集会でも出向いて話され続ける情熱は目を見張るものがあり、私如きも度々、彼の「言葉」に突き動かされたり、深く考えさせられる出会いがあった。

 今、帰らぬ人となられた「小田実氏」の冥福を祈ると共に、強い眼光と言葉の裏に、孤独と人の悩み悲しみを体感された深い精神が宿っていて、そこからの平和と人々の暮らしに対する優しい思いやりがあったと推察するのである。

 彼は、今回の参議院選挙での自民党の惨敗を、どのように感じ発言したであろうかと、亡き人の声を想像しながら、日本の転換期のひとつになるであろう、今日という日を深く記憶にとどめたいと思うのである。
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